真っ先に目指したのは、球団経営を黒字化させること

 横浜DeNAベイスターズが19年ぶりに日本シリーズへ――。
 まだ道半ばとはいえ、CSを突破し頂上決戦に挑めるという事実に、ファンたちは幸せな気持ちで胸を満たしたことだろう。
 
 テレビや新聞は、横浜の街を包む高揚感を伝え、アレックス・ラミレス監督の采配を称え、選手たちの奮闘の陰にあったドラマをここぞとばかりに披露した。また、かつてベイスターズのユニフォームに袖を通したOBをはじめ、様々な関係者がSNSなどを通じてチームの快進撃に賛辞を送っている。
 
 昨シーズンまで5年間にわたって球団社長を務めた池田純氏も、自身のFacebookにこう書いている(原文ママ)。

おめでとうございます。
横浜の街のみなさん。
ファンのみなさん。
選手、監督コーチ、チームのみなさん。ご家族のみなさん。
そして、ベイスターズの職員のみなさん。本当におめでとう!
新球団になった2011年から。毎日大変で、悩みながらも、信じてついてきてくれたことにあらためて感謝しています。
みんなの夢がまず1つかなったことを心から嬉しく感じています。おめでとう。
日本シリーズも、横浜の街から、日本中に最高の元気で盛り上げてくれることを楽しみにしています。
池田純氏Facebookより

「毎日大変で、悩みながらも、信じてついてきてくれたことにあらためて感謝しています。みんなの夢がまず1つかなったことを心から嬉しく感じています」――この言葉は、球団職員に向けられたものだ。改革に挑む同志として、同じ職場に机を並べたことがあるからこそ、ほかの人たちがほとんど言及しない「職員のがんばり」にまで思いが至ったに違いない。
 
 球団として日本シリーズを戦うのは3度目になるが、1960年「大洋ホエールズ」当時の親会社は大洋漁業(現マルハ)であり、1998年「横浜ベイスターズ」当時の親会社はTBSだった。繰り返された身売りは、球団の歴史がいつも不安定な経営とともにあったことを意味している。
 
 だから2011年オフに「横浜DeNAベイスターズ」として再出発した時、初代社長に就いた池田氏が真っ先に目指したのは、球団経営を黒字化させることだった。将来的には、横浜スタジアムとの一体経営を実現させることも視野に入れていた。優勝は、その先に置かれた目標だった。

池田氏が思い出す、ある年上の職員の姿

 池田氏は就任当時35歳の若さで、野球については素人同然。前体制時から球団の中で仕事をしてきた職員たちが不信感を持つのは当然のことだった。
 
 池田氏は明かす。
 
「よくわからない東京のIT企業からやってきて、黒字だと息巻いている。そんな私に対して、みんな疑心暗鬼でした。監督をお願いしていた中畑(清)さんには『野球の会社なんだから優勝をみんなの目標にしなくちゃダメだ』と言われましたし、古参の職員からは『社長は一人で戦っているように見えて、それでは誰もついてこない』と言われた。球場を満員にしよう、スポーツエンターテイメントビジネスに進化させよう、野球はつまみでいい、次は街づくりだ、などと私が口にすると『何を言ってるのかよくわからない』とまで言われたこともありました」

 改革の断行に賛否がつきまとうのは世の常だ。納得がいかず袂を分かった人もいる。それでも新生ベイスターズは着実に変わり、観客動員を増やしていった。がらんとしていた横浜スタジアムの空席がどんどん減り、そうした「目に見える結果」が出始めたことで、半信半疑だった職員の意識もおのずと変わっていった。

 池田氏が思い出すのは、ある年上の職員の姿だ。
 
「チームの要職にいたその人の表情は、私にとってバロメーターでした。その方も最初は、私に対して懐疑的な見方をしていたと思います。だけど少しずつ『いいこと言うようになったね』とか、『みんな信じ始めてきたよ』と言ってくれるようになったんです。それからは、私が職員に号令をかける時など、その方が渋い顔をしているのを見ると『ちょっとやりすぎかな』と自分を戒めたりするようになりました」

 池田氏はその人物が誰かを明言することはなかったが、昨年までGM補佐を務めていた浅利光博氏のことであろうと察せられた。浅利氏は昨年の9月10日、胃がんのため61歳でこの世を去った。1976年、捕手として大洋に入団し、80年に現役を退いてからは用具係やマネジャーなどを歴任したという。栄光の瞬間も低迷の時代も知る功労者は、球団初のCSの雄姿を見ることはできなかった。
 
「(日本シリーズへの進出が決まって)ベイスターズで仕事をしてこられた多くの人が、きっとうれし泣きしていると思いますよ。実は1カ月ほど前も、古くからベイスターズの職員を務められた故人のお宅に、ご遺族の方からお招きいただいてお邪魔してきました。線香をあげさせていただいてから、いろいろなお話をうかがって……やっぱりチームを離れたからこそ交わせる会話もたくさんあるんです。その中で感じたのは、暗黒時代の苦しみ、私が改革を始めた時の苦しみ、それでも我慢しながらついてきてくださり、支えてくださっていたということ。そして、そうした思いをご遺族とも共有されていたということです」

 それは、過去、球団に関わってきたすべての職員にも言えることに違いない、と池田氏は思う。親会社が代わり、経営者が代わり、仕事のやり方が変わる。それでも経営はなかなか安定せず、チームも強くなれない。そんな時に突然現れた若い社長にハッパをかけられ、もやもやした思いをこらえながら仕事を続け、経営の安定化という一つ目の目標はどうにか達成できた。
 
 そしていま、胸の奥にしまっていた「優勝」というゴールに、あと一歩のところまでたどり着いたのだ。苦労を重ねてきた歴代の職員たちにとって、それがどれだけうれしいことか。黙っていてもスポットライトを浴びる選手や監督、コーチたちに加えて、「日の当たらない職員たちとその家族にこそ賛辞を送ってほしい」と池田氏は願う。
 
「みんなもう忘れてしまっているけど、ほんの何年か前まで、大赤字で、ずっと最下位のチームだったんです。この短期間でここまで変わることができた、その過程で職員たちがどれだけ大変だったかを想像してみてほしい。現役の職員たちも、すでに球団を離れてしまった人たちも、みんな心の中でベイスターズを見続けている。ここまで来たら日本一になって、みんなの“夢”をかなえてほしいと思っています」

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日比野恭三

1981年、宮崎県生まれ。PR代理店勤務などを経て、2010年から6年間『Sports Graphic Number』編集部に所属。現在はフリーランスのライター・編集者として、野球やボクシングを中心とした各種競技、またスポーツビジネスを取材対象に活動中。