島崎京子について
名前 | 島崎京子 |
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生年月日 | 1972年1月7日 |
国 | 日本 |
出身 | 北海道加東郡 |
プロフィール | 帯広市立栄小1年の時にスケートを始める。白樺学園高校在学中の平成元年12月真駒内選抜で社会人を抑えて500メートルに優勝し、注目を集める。2年1月全日本スプリント総合3位、世界スプリント(ノルウェー)総合7位。同年11月W杯ベルリン大会500で初出場初優勝。同年12月W杯では500で橋本聖子を破り、40秒47のジュニア世界新を樹立。同シーズン同種目で総合優勝。同年全日本スプリントの500でも橋本を破り、4年アルベールビル五輪500で7位、1000で18位。5年松本国際500で優勝。6年リレハンメル五輪500で10位、1000は18位。7年全日本スプリント3年連続総合優勝。8年世界種目別選手権500で2位。同年アジア選手権1000で優勝。8〜9年W杯500で3勝を挙げ、総合4位。10年長野五輪500で5位入賞、1000は22位。W杯通算7勝は日本女子最多。同年7月引退後はタレントとして活動
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高校生が社会人を相手に大会優勝
島崎京子が生まれ育ったのは北海道加東郡。ウインタースポーツが盛んな北海道という土壌から、島崎は早くからスポーツに打ち込むようになります。中でも島崎が最も興味を持ったのがスケート。小学1年生にして始めると他の競技には目もくれず、スケート一本の活動を続けていきました。誰よりも速く滑りたいという気持ちが島崎を突き動かした結果、スケートの技術はどんどん上昇していきました。
高校進学に当たり、島崎はスケートを満足にできる環境を求めました。高校生になったらインターハイ出場等を目指していた島崎が選んだのは白樺学園。スピードスケートの世界では知らない者はいないほどの超名門校に88年、進学しました。
スピードスケートの超名門校の練習は過酷なものでしたが、島崎は毎日のようにハードなトレーニングを積み、もともとの才能をさらに伸ばしていきました。そうして迎えた89年12月の真駒内選抜、ここで島崎は社会人選手に交じって500mに出場し、なんと優勝を飾りました。高校2年生のあどけない少女が社会人選手たちを下したことは話題になり、島崎は一躍注目のスケーターとなりました。
高校卒業時、島崎は大学進学ではなく実業団選手としての道を選択。スピードスケートの名門チームである三協精機製作所(現:日本電産サンキョー)に高校卒業と同時に入社しました。
“新入社員”がW杯初出場初優勝の快挙
三協精機製作所に入社した島崎京子ですが、高校時代の輝かしい実績からも鳴り物入りの入部でした。周囲のプレッシャーに悩まされるかとも心配されましたが、島崎は90年1月の全日本スプリントに出場すると、いきなり総合3位に。そんな不安を一掃する滑りを見せました。
この勢いで島崎は3月にノルウェーで行われた世界スプリントに出場。ここでも活躍を見せて総合7位に入賞する実績を見せました。身長159センチと決して大きくはない島崎ですが、その天性の滑りはまさにスケーターとしての実力を知ら閉める結果になりました。
そして大団円となったのが11月に行われたワールドカップ・ベルリン大会。この大会中、島崎は500mに出場すると、予選から絶好調。並みいる強敵たちを相手に快勝を続けてとうとう決勝戦へ進出。メダル獲得への期待を持たれました。
入社1年目のいわゆる“新入社員”がワールドカップに出場すること自体快挙ですが、決勝まで残ることもとんでもないこと。そして総合優勝を果たすようならば日本人女子としては史上初の偉業となります。そんな周囲の期待に応えるかのように島崎はここでも世界の強敵を相手になんなく交わして、見事に優勝。日本人女子として史上初の大偉業を成し遂げました。
あと一歩届かなかった五輪のメダル
ワールドカップ初出場初優勝と言う大偉業を成し遂げた島崎京子は追う立場から追われる立場へと変化していきました。それでも島崎はさらなる前進を遂げていきます。12月に出場した全日本スプリントでは500mで橋本聖子と対戦。島崎からしたら明らかに格上の存在でしたが、それでも島崎は屈することなく勝利。この時のタイム40秒47はジュニア世界新記録になる快時計でした。これでこのシーズンの500m総合優勝を決めて、名実ともに実力はスケーターの仲間入りを果たしました。
こうなると当然期待がかかるのはオリンピックでのメダル。島崎は92年に行われたアルベールヒルオリンピックへ初めて出場しますが、やはり世界の壁は厚いのか500mで7位入賞、1000mでは18位と苦汁をなめる結果に終わります。しかし、翌93年に行われた松本国際では500mを優勝。その実力を改めて誇示します。
アルベールオリンピックで苦汁をなめた島崎は94年に行われたリメハンメルオリンピックに出場。前回同様に500mと1000mのレースに出場しますが、1000mは前回同様に18位、そして500mは前回の5位から大きく順位を下げる10位に終わり、またもメダルはお預けという結果に終わりました。
長野五輪で悲願のメダルを目指すも…
二度のオリンピックの大敗が島崎京子を苦しめたのか、94年の島崎はさほど著名な活躍を残すことができず、復活を飾ったのは95年。この年に行われた全日本スプリントで500mに出場すると3年連続となる総合優勝を飾り、復活を遂げます。さらに96年には世界種目別選手権の500mに出場して2位に入ります。これまでの優勝はすべて500m戦でしたが、アジア選手権では1000mでも優勝。さらに96-97シーズンはワールドカップの500mで3勝を挙げ、総合4位に食い込みました。
この時、島崎はすでに25歳。スピードスケートの女子選手としてはそろそろ潮時を考えなければならない年齢に。悲願のオリンピックのメダルを取るには98年の長野オリンピックしかありません。この大会は原田雅彦をはじめとしたスキージャンプ団体の悲願のメダルが注目されていましたが、それと同じくらいに島崎もまたメダルを欲していたと言えるでしょう。
そうして迎えた長野オリンピック。島崎は500mで当初は4位につける好スタートを決めます。メダルの期待がかかりましたが、2本目で島崎は5位にとどまり総合で5位。惜しくもメダルには届きませんでした。この時の島崎の悔しさは想像を絶するほどで、テレビのインタビューを無視して通り過ぎたほど。いかにこのオリンピックに賭けていたかがわかります。
そしてオリンピック終了後、島崎は現役引退を表明。オリンピックのメダルにこそ届きませんでしたが、ワールドカップ通算7勝の日本女子最多記録保持者として今もなおスピードスケートの選手として知られる存在です。