カルチャーセンター

 晴れてグリーンカードを取得した本間の快進撃がはじまった。その年(1983年)に30人規模の道場を開設。その1年半後にはチェロキー通りに100人以上が稽古できる道場を新設した。そしてその3年後、本間は新たな挑戦を始める。

 デンバー植物園の近くの閑静な住宅地に2階建ての大きな家を借り、「ジャパンハウス・カルチャーセンター」の看板を掲げた。そこで日本語、茶道、華道、書道、日本料理の教室を開いたのだ。それぞれのコースの講師は若い日本人留学生達だ。彼らはボランティアで活動してくれた。

 アメリカ人に合気道を教えるには、当時アメリカでブームに成りつつあった日本の伝統文化を利用して幅広く門戸を開き、そこから、馴染の薄かった合気道に導くことが肝要と本間は考えたのだ。まずは人を集めて、日本文化の土壌の中から合気道を浮き上がらせようとしたのである。

 カルチャーセンターで教えるクラスは毎日夕方5時から夜10時までであったが、昼間は小学校や中学校へ出かけて行って出張授業(カルチャーショー)を行った。生け花や習字のデモンストレーションを教室で行う際は、英語の解説をテープに吹き込んでおき、テープの解説に合わせてデモンストレーションをして見せた。

 そのテープにはバック・グランド・ミュージックも入れて雰囲気を作る努力もした。そして最後は合気道デモンストレーションだ。本間が鮮やかに合気道の技を決めると、教室の生徒達は大歓声を上げた。カルチャーショーは大好評で、デンバーとデンバー周辺のほとんどの小中学校から声がかかった。多いときは1日に3、4校も回ることがあった。

日本館とジャパンハウス

 その頃、アメリカで日本の禅がブームになりつつあった。

 ニューヨークに大菩薩禅堂「金剛寺」、そして禅堂「正法寺」の住職をし、また「禅センター」でも活躍していた嶋野栄道老師がいた。その老師が巡回指導でデンバーに来た。禅指導会の後、指圧の名人と紹介された本間が、老師の肩を揉んでいると、老師は本間にこんな事を言った。

「本間くん、『ジャパンハウス・カルチャーセンター』という名前は、どうも軽すぎる感じがするね。『日本館』という名前に変えた方が良い。それから、幸運を呼ぶと言われている『白い牛』をロゴマークしたらどうだろう」

 嶋野栄道老師は本間の人間力を見抜き、そして彼の未来を見通しているかのようなアドバイスを送った。スケール感のあるその名称とロゴに本間の胸は高まった。

 その後、日本館の活動や日本文化紹介・宣伝するため、本間は「ジャパンハウス」という新聞を発行する。月刊紙であったが1万部を発行し、デンバー市内各所のコミュニティ新聞置き場に置いた。1000部や2000部ではない、なんと1万部も発行したのだ。

 そんな本間の日本館に注目した日本のテレビ局各社は、コロラドの情報やトピックスを得ようと彼に近づいた。やがて本間はコーディネーターの仕事が依頼されるようになった。たとえば、日本テレビの「お昼のワイドショー」、「徳光和夫のTVフォーラム」や、NHKのスペシャルドキュメント番組などだ。

 本間の一番の思い出は、「お昼のワイドショー」で2週連続で放映され、視聴者の涙を誘った「混血青年、母を求めて」という作品だった。日本人の母と米兵であった米国人の男との間に生まれた男児が、母と別れて米国に養子に出されたものの、養子先に実子が生まれ、施設に預けら育てられる。その後、その男児が青年となって祖国日本の母を訪ねるという内容であった。

 もうひとつの忘れられない思い出は、戦時中に日本軍の捕虜となり、東京ローズ等と共に日本軍のプロパガンダ放送(ラジオ)に携わったドッド氏の話である。ドッド氏が自分の過去を振り返り日本の関係軍人等と再会するドキュメンタリーであった。この作品はNHKの「スペシャル・ドキュメンタリー」(前編・後編各1時間番組)となって放映された。

 ドッド氏は「敵国に協力した」として、戦後米国から年金等の社会保障が受けられず、名誉も剥奪されていた男である。そのドッド氏と青年のふたりは、その当時、共に日本館の日本語クラスを受講しており、本間によって掘り起こされた話である。

Vol.28に続く

Project Logic+山本春樹

(Project Logic)全国紙記者、フリージャーナリスト、公益法人に携わる者らで構成された特別取材班。(山本春樹)新潟県生。外務省職員として在ソビエト連邦日本大使館、在レニングラード(現サンプトペテルブルク)日本総領事館、在ボストン日本総領事館、在カザフスタン日本大使館、在イエメン日本大使館、在デンバー日本総領事館、在アラブ首長国連邦日本大使館に勤務。現在は、房総半島の里山で暮らす。