WAT'S GOIN' ON〔Vol. 2〕bjリーグ発足 青森ワッツ誕生への導火線

低いハードルでは面白くない?

〔Vol. 2〕で、始まったばかりのbjリーグを〈華々しいスタート〉と表現したが、では具体的には、いったい何が華々しかったのだろうか。

 2005年11月5日に有明コロシアムで開催された開幕戦(東京アパッチ×新潟アルビレックスBB)に、3759人の観客が集まったからなのか。あるいは、東京アパッチを率いていたHCが、あのコービー・ブライアントの父親だったからか。はたまた、日本のスポーツ界では異例ともいえる「競技団体の傘下に入らないプロリーグ」だからか。いずれも間違いではないが、芯を食っているともいえない。

 bjリーグの本質は「可能性」にあった。一般に、プロリーグの本質は「不可能性」に根差すので、ずいぶん違う。プロリーグの不可能性(あなたにはなれない)は、選手やチームのヒエラルキー(偉大さの序列)に直結する。

 一方、bjリーグは最初から開かれていた。開かなければ、選手を確保できなかったからだ。開幕の10カ月前におこなわれたトライアウトには517名が参加し、102名がドラフトの指名対象選手となった。「あなたにはなれない」ではなく、「あなたにもなれる」。

 1チームあたり7200万円(初年度/選手の年俸総額の上限)という極端に切り詰められたサラリーキャップ、トライアウトと完全ウェーバー制のドラフトなど、bjリーグの特徴は、各チームの戦力差をならす仕組みに表れていた。

 この点について、目の肥えたバスケファンの一部やスポーツメディアから「bjリーグのプレーの質についての懸念」の声が上がったのは、かならずしも不当とはいえないだろう。可能性をとれば、クオリティは下がる。しかし、頭数は増えるのだ。もっと別の言い方もできる。

 高級レストランの料理と、実家の味。
 どちらの料理が凄いか? 

 高級レストランのほうが凄いかもしれないが、凄いと美味いは厳密には重ならない。毎日食べるなら、どっちだ。どちらを、より愛せるか。とてつもなく強い「知らない土地のチーム」と、勝ったり負けたりだが「自分の暮らしている土地のチーム」。応援するなら?

 ホームタウン制の真価はそこにある。

釣り好きの銀行マン

 当初、bjリーグの目論見は成功した(ように見えた)。2006年の開幕前の時点で、翌シーズン(06‐07)から富山と高松の参入が決まり、計8チームで戦っている間にさらに2チームが増え(07‐08)、その後も次々と。開幕から7年後の2012‐13シーズンには、全国21チームが参加する巨大なプロリーグの様相を呈していたのである。

「青森でね、八戸の人と弘前の人が一緒になってチームを作るなんてまるで七不思議だ、なんて言われたものですよ」

 そう振り返るのは、下山保則(現・チーム顧問)だ。2011年まで青森銀行に勤める銀行マンだった下山は、2012年、青森県をホームタウンとするプロバスケットボールチームの結成を目指し、運営会社となる青森スポーツクリエイションを設立した。

「でも、バスケットはほとんどやったことないんです」

 下山は、地元ではよく知られたサッカー愛好家だった。かつては弘前南高校サッカー部のキャプテンとしてチームを県大会準優勝に導き、青森銀行に在職中には、市民クラブ(ブランデュー弘前の前身)を設立。なぜ、プロバスケットに関心を持ったのか。

「ふたりの娘がバスケ部だったので、よく応援に行きました。サッカーを楽しむ身からすると、試合展開が早くて、ポンポン点が決まるのが新鮮でしたね」

青森県という意識

 だが、個人の新鮮さだけで起業するのでは、元銀行マンの名が廃る。下山が注目したのは、青森県に脈々と流れる「ナイターバスケット」の伝統だった。

「意外かもしれませんが、当時から青森県には、協会登録者だけで1万3000人を超えるバスケット愛好者がいました。仕事帰りの会社員から主婦の皆さんまで、大人が夜の体育館でバスケットを楽しむ『ナイターバスケット』として、各市にリーグもあって。人口当たりの愛好者数はダテじゃありません」

 資本金は約3000万円。目標とする観客動員数は、1試合2000人。選手の総年俸を約7000万、年間運営費1億円強。この数字で、JBLへ参入することは不可能だ。下山の決断は、bjリーグあってのものだった。

「とにかく地元に愛されるチームにしたかったんです。いわゆる、津軽地方とか南部とか、そういう青森県内の距離感ではなく、日本全国の中での青森県。そういう意識のブースターを集めたい。ですから、ホーム会場もひとつに絞るのではなく、県内各地で試合をすることにこだわりました」

WATS GOIN' ON〔Vol. 4〕につづく

VictorySportsNews編集部