WAT'S GOIN' ON〔Vol. 1〕蠢動する青森ワッツ 次世代の国内プロバスケットボール・チームのありかた

ブロンコス

 河内を中心にして発足した新潟アルビレックスBB(以下、アルビレックス)は、初の地域密着型のプロチームとしてスーパーリーグで躍動していたが、プロリーグ化は遅々として進まず、新潟に続くチームも現れなかった。

 ただひとつの例外が、さいたまブロンコスだ。アルビレックスよりも早い時期に発足した市民型のチーム。当時、プロチームと名乗っていなかった理由は、その起源に見出せるかもしれない。さいたまブロンコスの代表取締役社長兼GMを務めた成田俊彦(現・山口パッツファイブ代表)は、かく語っている。

〈2000年に新潟がプロチームとして立ち上がる5年ほど前に、我々は市民型球団としてスタートを切っていた。だがプロ化を目指すという考えは全くなく、選手たちが望んでいたのは、日本リーグ復帰だった。  
 そもそもブロンコスが生まれた経緯は「アンフィニ東京ブロンコス」が年度末に突然廃部になってしまい、行き場のなくなった選手たちにバスケのできる環境を作ってあげたいという思いから「ME所沢ブロンコス」が誕生した。
 新潟のように「プロチームを作る」という信念のもと、Jリーグで実績のあるところが運営にかかわってスタートを切ったのとは、経緯も状況も全く違う。将来プロ運営しようというビジョンのもとで生まれたわけではなく、必要に迫られて模索しながら始まったチームだった〉*

*『ブザービーター』(扶桑社)より引用.

 だが、成田は決断した。閉塞状態の日本バスケットボール界に風穴を開けるべく、埼玉ブロンコスと新潟アルビレックスが中心となり、プロリーグ設立研究会が生まれた。この会議の開催場所を提供し、後にbjリーグ経営諮問委員を務めたのが弁護士の水戸重之である。

bjリーグ

 そして、話はトントン拍子に進み、最初の研究会からわずか3カ月後の2004年6月30日には、さいたまブロンコスと新潟アルビレックスBBがJBLにリーグの脱退届を提出。新リーグ設立の記者会見をおこなうに至った。河内によれば、旧体制側の怒りはすさまじかったようだ。

〈我々のこの動きに対しJBLは「何を勝手なことをやっているんだ」という不快感をあらわにする。自分たちの無為無策ぶりは棚に上げ、私たちの行動を自分勝手な暴挙と即断したのである。蒔苗会長に至っては、話し合いを認める私たちに対し、「もうお前たちとは話をしない、勝手にしろ」とまでいい放ったくらいである〉*

*河内敏光『意地を通せば夢は叶う!』(東洋経済新報社)より引用.

 この発言は、おそらく事実だろう。後にBリーグが発足するにあたり、bjリーグ側も、JBL側も「公式史観」を記した書籍を刊行しているが、JBLのオフィシャルブック『バスケットボール日本リーグ機構 12年間を振り返って』に寄せられた蒔苗昭三郎(元JBL会長)の言葉には異様な雰囲気が漂っている。

〈昨今の日本スポーツ界では各スポーツ団体が様々な形で改革を進めている中、日本のバスケットボール界も一歩一歩次世代のために改革を推し進め、新しいステージの扉を開ける準備をして参りました。思い返せば、財政状況が悪化した2001年5月よりJBL会長を拝命し、問題点の洗い出しと同時に組織内の改革を速やかに遂行して、財政基盤の安定化を図りました。次にトップリーグとしての構造改革を提唱し、計画立案の骨子を定め、協会と連携を取りながら進めて参りました〉*

*『バスケットボール日本リーグ機構 12年間を振り返って』(Gakken)より引用.

 この調子で、bjリーグについては最後まで一言も触れずに終わるのである。あまりにも攻撃的な河内の言葉にも行き過ぎはあっただろうが、JBLを率いた蒔苗の官僚答弁の硬直ぶりもなかなかのものだ。

 結局、埼玉と新潟が翌5年の3月末をもってリーグを脱退すると表明してから、2カ月も経たないうちに、仙台、東京、大阪、大分が参加を表明し、bjリーグは華々しいスタートを切った。

WATS GOIN' ON〔Vol. 3〕につづく

VictorySportsNews編集部