黒田博樹について

名前黒田博樹(クロダヒロキ)
生年月日1975年2月10日
日本
出身大阪府
プロフィール父は元南海の外野手。小学4年のときオール住之江で野球を始める。1996年東都大学野球で、神宮新記録の最速150キロを投げる。

1997年ドラフト2位で広島に入団。初登板初勝利を挙げるなど主力として活躍し2003年から5年連続開幕投手を務める。2007年には通算100勝をマークし、2008年からはメジャーリーグへ挑戦。ドジャース、ヤンキースと名門2球団で79勝をあげて2015年から広島に復帰。2016年には25年ぶりの優勝に貢献して同年現役引退。広島時代の背番号15は永久欠番に指定される。

NPB時代の通算成績は、321試合、124勝105敗1S、防御率3.55、2,021回2/3、1,461奪三振。最多勝1回、最優秀防御率1回。MLB時代の通算成績は212試合、79勝79敗、防御率3.45、1,254回、986奪三振。最高勝率1回、最優秀防御率1回、最多奪三振1回。右投右打、185cm、93kg

高校時代3番手投手も、大学時代に豪腕投手として頭角を現す

黒田博樹は、南海ホークス、高橋ユニオンズなどプロ野球で外野手として活躍した父・黒田一博と、東京オリンピックの砲丸投げ代表候補にもなった母・靖子との間の次男として生まれます。そして父が興したボーイズリーグ「オール住之江」で自然と野球を始めました。後にプロ野球選手になるわけですから、何をやらせても器用にこなすのかと思いきや、そうではありません。実は相当な不器用で、頭角を現すのに相当な時間を要しました。

高校には地元の名門・上宮に進学します。当時は4歳年上の元木大介らが主力時代に甲子園で旋風を巻き起こしていた直後であったこともあって、プロ入りする逸材がゴロゴロいました。スポーツ推薦で入学し高身長でもあった黒田博樹でしたが、3番手投手から抜け出せません。

結局、甲子園にも縁がない高校時代となりましたが、元来まじめな性格でもあったため、野球に取り組む姿勢だけはピカイチでした。卒業後、専修大学に進学すると、一気に才能を開花させます。球速150キロをマークする速球投手として、3年時には2部だったチームの1部復帰に貢献します。そして「東都最速の男」として名を馳せドラフトの目玉となり、いよいよプロの世界へ飛び込みました。1996年当時は逆指名制度がある時代であり、広島東洋カープを選択し入団しました。

5年連続開幕投手を務め、エースとして暗黒時代の広島を支える

即戦力の豪腕投手として入団したこともあって、1年目からチャンスを与えられます。巨人戦で初登板初先発すると、新人らしからぬ完投勝利を挙げるという快挙を達成しました。同年は6勝に終わりましたがローテーションをしっかり守り抜きます。そこからはスタミナ抜群でミスター完投の異名をとり、黒田博樹は広島先発投手陣の軸となっていきます。2001年から7年間で6度の二桁勝利を実現し、2003年からは球団2人目となる5年連続の開幕投手も任されました。

2004年にはアテネ五輪には日本代表として出場し、中継ぎで2勝と銅メダル獲得にも貢献しました。さらにギアを挙げた2005年には15勝で初の最多勝とタイトルを獲得、翌2006年には防御率1.85で最優秀防御率と日本を代表する投手へと成長していました。しかし当時の広島は暗黒時代であり、1991年を最後に優勝から遠ざかり、1998年からは一度としてAクラス入りすら実現していませんでした。

ファンの想いに応える為、FA権行使を1年先送りし広島に残留

広島東洋カープという球団は市民球団ゆえの悩みを抱えていました。それは高年俸を出せないがゆえに、育てた選手がFA権を行使してライバル球団に旅立っていくことです。そして自身も、メジャーリーグ挑戦を具体的に考えており2006年中に取得したFA権を行使する事はある意味規定路線でした。

しかし黒田博樹は、この時点で宣言せずもう1年広島残留を選択します。そうさせたのは他ならぬ広島ファンの声でした。2006年シーズン終盤、もしかしたら広島市民球場でのラスト登板になるかもしれない試合で、残留を望む大横断幕を掲げられたのです。熱すぎるファンの想いを汲み取り、国内なら生涯広島を宣言しました。

そして2007年も広島のエースとしてマウンドに立ち、通算100勝もマークします。通算5度目の二桁勝利もあげるも、10年連続Bクラスで終わり、ついに翌年からのメジャー挑戦を行動に移しました。それでも広島ファンは、いつしかこの男がチームへ帰還することを夢見るようになり、それが8年後に実現したのでした。

メジャー名門2球団を渡り歩き、7年間で79勝と安定したピッチング

©Getty Images

2008年からは日本人選手も多く在籍したロサンゼルス・ドジャースでのプレーが決定します。もとは先発完投が当然でしたが、メジャー移籍前からマイナーチェンジしていました。移動距離も長く登板間隔も短いため、7回をしっかり投げ、三振を奪うというよりは打たせてアウトをとるスタイルへの変更です。デビュー戦を勝利で飾ると、そのまま活躍し同年ドジャースは4年ぶりの地区優勝を果たします。黒田博樹にとって、プロ野球人生で初めて味わう優勝でした。翌2009年は開幕投手を務めるなど、主力投手となり、合計4年間で41勝をマークしました。

2012年からドジャースを離れますが、毎年のように、古巣広島からのラブコールも受けていました。そしてまだ海外でのプレーにこだわり、次の活躍の場にニューヨーク・ヤンキースを選択しました。同チームで3年間のプレーとなりましたが、全て1年契約というところも大きな特徴です。そしてまさにサムライのように、毎年自分の仕事をこなしていき、ドジャース時代の3年目から続ける二桁勝利を5年に伸ばしました。

またメジャーで評価される200イニング登板も3年連続で達成し、田中将大が加入した2014年も、唯一年間を通してローテーションを守りました。メジャー7年間で79勝をマークした右腕には、高年齢ではありましたが古巣含めてまだまだオファーがありました。

高額オファーを断り、広島で有終の美を飾る25年ぶりのリーグ優勝

40歳にしてプロ生活19年目を迎えた黒田博樹が、最後にプレーする地に選んだのは古巣広島東洋カープでした。メジャーでは複数年で20億円とも言われた高額オファーを蹴ってまで愛する広島に帰還したのです。2015年シーズン、メジャー仕込みの投球スタイルは健在で、11勝に、防御率2.55(リーグ7位)と実力を見せ付けました。さらに契約を1年延長して臨んだ2016年、ついに広島での初優勝を経験します。開幕から好調を維持し、自身も7月には日米通算200勝を達成します。前年に同じタイミングで広島に復帰した新井貴浩とともに精神的支柱として背中で引っ張り、セ・リーグを独走しての25年ぶりのリーグ優勝を飾りました。終盤に10勝目も挙げて、メジャー時代から続けていた7年連続二桁勝利も達成しました。

初の日本シリーズを前にして、同年限りでの現役引退を表明しました。そして第3戦に先発登板し6回途中まで投げるも負傷降板し、それが結局現役生活最後のマウンドとなります。奇しくも最後のバッターは、世界も注目する大谷翔平でした。チームは2連勝から4連敗と日本一を逃し、宣言どおり現役を引退します。そして、黒田が広島で背負っていた背番号15は、球団3番目の永久欠番となりました。


VictorySportsNews編集部