新井貴浩について

©Getty Images
名前新井貴浩(アライタカヒロ)
生年月日1977年1月30日
日本
出身兵庫県
プロフィール広島工、駒沢大学を経て、1999年ドラフト6位で広島に入団。

誰にも負けない練習量でチャンスを掴むと、長距離砲としての才能が開花。2005年には広島の4番として初の本塁打王を獲得。2008年からはFA権を行使して阪神に移籍。2011年には打点王となるなど活躍を見せたが、2014年には大きな不振に陥り自由契約となる。2015年からは古巣広島に復帰。2016年には、2000本安打、300本塁打を達成。さらに同年MVPを獲得する活躍を見せて25年ぶりのリーグ優勝に貢献。

通算成績(2016年まで)は2,220試合、7,577打数2,107安打、306本塁打、1,231打点、41盗塁、打率.278。本塁打王1回、打点王1回。弟・良太(阪神)もプロ野球選手。広島工、駒澤大学卒、右投右打、189cm、102kg

高校、大学と突出した成績を残せず、驚きの方法でプロ入りを実現

広島県広島市で生を受けた新井貴浩は、地元で幼少時代を過ごし、広島工業高校へ進学しました。当時から恵まれた体格の持ち主で、バットに当ればその飛距離は凄まじいものでした。しかし、野球センスという意味では人並み以下で、それを人の5倍はしていたという練習で補っていました。甲子園にも縁がなく、主将として迎えた3年最後の夏もベスト16止まりに終わりました。

駒澤大学に進学後、大きく成長することなく過ごしていましたが、最上級生となると少しずつでしたが、名前が知れ始めます。日米大学野球で打率5割をマークすると、卒業を間近にした秋のリーグ戦で打点王にベストナインを獲得します。そしてそれまで大学通算0本塁打でしたが、最後の2試合で2本塁打し、長距離打者の片鱗を見せました。しかし、やはり守備が苦手で、とてもドラフトにかかる選手ではありません。すると、広島東洋カープで現役バリバリだった大学の先輩・野村謙二郎の家を訪ね、バットスイングをアピールするという行動に出ました。野村は野球の才能よりも熱血漢を評価し、同年のドラフト6位で広島に指名されました。

プロでも練習の虫は、徐々に長距離砲としてチャンスをつかむ

何とかプロ入団にこぎつけましたが、フリー打撃ではバットに当らず、守備も走塁も不合格という状況はもちろん変わりません。さらに当時の広島は、前田智徳、金本知憲、緒方孝市と外野手は鉄壁に近く、一塁手には江藤智や外国人もいて新井貴浩が入る余地はとてもありませんでした。

しかし相変わらず野球へ取り組む姿勢は誰の目にも明らかであり、遠くへ飛ばす素質もあったことで一年目から一軍試合に抜擢されました。すると打席数が少ない中で、7本塁打と長打力を披露します。2年目にも16本塁打、3年目にも18本塁打と数字を伸ばすと、4年目の2002年にはついに完全レギュラーの座を確保します。140試合にフル出場して、28本塁打、75打点をマークし着実に階段を登っていました。

一度は降格するも、4番に返り咲くと初の本塁打王に輝く

2003年、新井貴浩は広島東洋カープの4番に抜擢されます。しかし実力で奪ったものではなく、それまで4番を務めていた金本知憲がFAで阪神に移籍した為、その後を引き継ぐ形でした。ミスター赤ヘルと呼ばれた山本浩二以来の、広島出身の右長距離砲に対し、ファンは大きな期待を抱きました。しかしそれは巨大なプレッシャーとしてのしかかり、打率は5分近く下げ、本塁打も前年の28本から19本へと減らしてしまいます。結局、後半戦から4番は降格となり、アンディ・シーツに奪われました。さらにその不調は翌年にまで続き、打率.263、10本塁打に終わってしまいました。

しかし、今度は2年間4番を務めたシーツまでも阪神へ移籍してしまいます。ここで再び白羽の矢が立つと、新たなフォームで挑んだ2005年は飛躍の年となりました。自身初の打率3割を達成し、6試合連続本塁打など長距離砲としての素質が一気に開花します。山本浩二の持つ球団記録に1本及びませんでしたが43本塁打で本塁打王を獲得しました。

金本を追ってFAで阪神へ移籍するも、後半は不調に苦しむ

その後も広島の4番として、2年連続100打点をマークした新井貴浩は、2007年オフに当初は否定していたFA権行使を宣言しました。宣言&残留の例がない広島だった為、チームを去ることが確定します。そして、再び金本知憲と一緒に野球をしたいという願望から、その背中を追って自身も阪神タイガースへ移籍しました。

結局7年在籍しましたが、残した成績は前半と後半で大きく異なりました。移籍初年度の2008年には通算1000本安打を達成するなどチームに貢献し、8月には北京五輪日本代表にも選出され全試合で4番として出場しました。そして同年には一塁手として初のゴールデングラブ賞も受賞と、入団当初守備を酷評された評価を長年かけて覆しました。2010年には、金本に代わって4番を務め、自身キャリアハイの打率.311、112打点をマークします。翌年も好調を維持し、93打点で初の打点王を獲得しました。しかしその後さらに3年で阪神との契約を延長すると、2012年は怪我の影響もあって打撃不振が続き4番降格となります。広い本拠地・甲子園では本塁打数も激減し、契約終了年の2014年には過去最低の3本塁打に終わっていました。阪神ではもう出場機会に恵まれない状況であったため、新天地を求めて自ら自由契約を申し入れ、退団に至りました。

黒田博樹とともに広島へ復帰し、25年ぶりのリーグ優勝に大貢献

38歳で迎えるシーズンに、新井貴浩が着たユニフォームはまさかの古巣・広島東洋カープでした。2013年に実に16年ぶりにAクラス入りを実現し、2015年からは緒方孝市が新たに指揮を執ることが決まっていた、まだまだ若いチームです。ベテラン、さらには補強ポイントでもあった右の大砲であることを理由に、カープが手を差し伸べた形となりました。そしてその1ヵ月後には、広島暗黒時代をともに4番とエースとして牽引した黒田博樹の復帰も決定します。これで、広島の地の盛り上がりは最高潮となりました。

広島復帰2年目の2016年、チームは投打、そしてベテラン、若手のバランスが最高になり序盤からリーグを独走します。自身もシーズンを通してほぼ4番に座り、4月には2000本安打、8月には300本塁打を達成しました。チャンスに強い打撃も披露し、自身4度目の100打点越えとなる101打点もマークします。黒田も二桁勝利と、両ベテランが精神的支柱として機能し、広島は25年ぶりのリーグ優勝を飾りました。新井にとっては、プロ18年目にして初めて味わう優勝となり、初のシーズンMVPも受賞しました。黒田は同年限りで現役を引退しましたが、自身は2017年シーズンも貴重な戦力として、バットを振っています。


VictorySportsNews編集部