田中将大について
©Getty Images名前 | 田中将大(タナカマサヒロ) |
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生年月日 | 1988年11月1日 |
国 | 日本 |
出身 | 兵庫県 |
プロフィール | 小学1年生から昆陽里タイガースで野球をはじめ、高校では駒大苫小牧に進学。2年生夏には連覇を決める胴上げ投手となる。3年夏も決勝まで進み、斎藤佑樹と2試合に渡る伝説の試合を繰り広げるも準優勝に終わる。
2006年ドラフト1位で楽天に入団すると1年目から活躍。5年目の2011年には初の沢村賞を受賞。2013年は24勝無敗という神がかり的な活躍を見せて球団創設初優勝に貢献。2014年からはポスティングシステムで、ニューヨーク・ヤンキースと契約した。入団以降3年連続二桁勝利などエースとして活躍中。 NPB時代の通算成績は、175試合、99勝35敗3S、防御率2.30、1,315回、1,238奪三振。最多勝2回、最優秀防御率2回、最多奪三振1回、最高勝率2回、MVP1回、沢村賞2回、新人王、正力松太郎賞。MLB時代の通算成績は75試合、39勝16敗、防御率3.12、490回、445奪三振(日米の成績はともに2016年まで)。駒大苫小牧高校卒、右投右打、190cn、97kg |
駒大苫小牧高校時代、2年生でエース格として全国優勝
田中将大は兵庫県で生まれ、小学1年生から地元の野球チーム「昆陽里タイガース」で野球を始めます。当時のポジションは捕手であり、同級生でチームメイトだった坂本勇人ともバッテリーを組んでいました。意外にも、ポジションは6年間捕手一筋であり、強肩強打を誇る4番打者として活躍していました。
中学に上がり、「宝塚ボーイズ」で硬式野球を始めると、強肩を買われいよいよ投手への挑戦がスタートします。するとあふれる才能が一気に開花し、関西南選抜チームに選出されるなどメキメキと頭角を現しました。そして高校からは地元を離れ、遠い北海道の地である駒大苫小牧高校に進学します。すると自身が1年生だった2004年夏、チームは甲子園で全国優勝を成し遂げます。甲子園の優勝旗が初めて白河の関を越えることになった瞬間でした。さらに翌年夏も甲子園出場を決めると、2年生ながら主力となり、チーム最多の登板を果たします。順調に勝ち上がって決勝戦までたどりつくと、5回から登板しそのまま投げきります。最後の打者から150キロのストレートで三振を奪い、チームの連覇を達成するとマウンドで高らかに吠えました。
斎藤佑樹と甲子園史上に残る決勝戦を繰り広げるも3連覇を逃す
常勝軍団と化したチームは、翌春のセンバツ出場も確定していましたが、不祥事が発覚し出場を辞退します。結果的に田中将大にとって3年夏が最後の甲子園チャンスとなります。それでも北海道大会を勝ちあがり、史上2校目となる夏の大会3連覇を目指すことになりました。しかしエース田中将大は、大会直前から体調を崩しており万全な状態ではありませんでした。それでも何とか継投でしのぎ、奇跡的な逆転勝利を続けます。そしてついには3連覇をかけた決勝戦までたどりつきました。
決勝戦の相手は、5試合中4試合で完投していたエース斎藤佑樹を擁する早稲田実業でした。先発を回避して臨みましたが、3回のピンチに早くもリリーフ登板すると、そのまま壮絶な投手戦が繰り広げられました。1-1のスコアのまま延長15回でも決着つかず、翌日に引き分け再試合となります。2試合目も先発投手が初回に失点すると、1回からリリーフ登板しそのまま完投するも3失点してしまいました。結果的に一度もリードを奪うことなく試合は進み、自身が最後の打者となって敗戦しました。しかしこの2試合は甲子園史上に残る名試合として多くのファンの記憶に残っています。
野村克也監督の元でプロ人生をスタートさせて、5年目には沢村賞を獲得
©Getty Images2006年秋にプロ志望届を出すと、当然ながら超高校級投手として注目の的となります。同年のドラフト会議では1位指名で4球団が競合となり、翌年が球団創設3年目となる東北楽天ゴールデンイーグルスへの入団が決定しました。選手層が厚い球団であれば、二軍で鍛えてから一軍デビューという形となりますが、当時の野村克也監督はスーパールーキーを一軍で先発として起用していきました。
すると1年目から二桁勝利をマークするなど非凡なところを見せて、新人王を獲得します。3年目の2009年には第2回WBCにも若くして選出され、日本の連覇に貢献しました。さらに同年には15勝をあげて、チーム初のクライマックスシリーズ進出の原動力となるなど田中将大の成長は止まるところを知りませんでした。入団5年目の2011年には、先発投手として最大の栄誉である沢村賞を手にします。同年は最多勝、最優秀防御率、最多奪三振の投手3冠に輝き、極めて難しい沢村賞の7項目を全てクリアしました。
前人未到の24勝無敗で、楽天球団創設初優勝の立役者となる
ここまで順調に成績を残してきた田中将大でしたが、2013年はプロ野球史上に残る大活躍を見せました。第3回WBCに出場し中継ぎとして活躍後、遅れてシーズンが開始します。すると怒涛の連勝街道をひた走ります。エースが登板する試合は、とにかく負けることがなく無敗のまま勝ち星だけがどんどん伸びていきます。5月からは史上初となる5ヶ月連続の月間MVPを獲得し、チームもエースに引っ張られて優勝争いをリードします。まさに神がかり的な活躍が続き、あらゆる連勝記録を塗り替えていきました。シーズン終盤になっても勢いは衰えず、優勝が決まる試合では初のリリーフ登板し見事胴上げ投手になります。結局28試合(先発27試合)の登板で24勝をマークし、シーズン無敗で終わりました。
クライマックスシリーズでも連勝は途絶えることなく、自身初の日本シリーズへ突入します。第2戦に先発して勝利を収め、3勝2敗で迎えた第6戦にも先発登板しました。しかしこの試合で160球完投するもこの年初めての敗戦を喫し、対戦成績もイーブンとなります。連日の登板はありえない状況でしたが、第7戦で3点リードの9回、リリーフとしてマウンドに上がります。ここで千両役者は無失点に抑えて再び胴上げ投手となり、楽天球団史上初となる日本一を達成しました。
当然あらゆる投手タイトルを独占し、2度目の沢村賞、MVP、ベストナインなどもすべて満場一致で受賞しました。ギネス世界記録に登録されるという活躍を残し、かねてからの夢であったメジャーリーグ挑戦を表明しました。
名門ヤンキースに移籍しても、負けない投手として活躍中
©Getty Images2014年1月、田中将大はポスティングシステムを行使して、ニューヨーク・ヤンキースとの契約に合意しました。実に7年契約という大型契約であり、名門球団の期待の大きさが伺えました。イチロー、黒田博樹ら日本人先輩もいるチームに入ると、順調なスタートを切ります。初登板で日米通算100勝をあげると、前半戦で12勝といきなりエース級の活躍を見せました。7月に右肘の違和感を覚え戦線離脱するも、1年目は13勝5敗で終わります。2年目、3年目と開幕投手を務め、二桁勝利をメジャーでも続けていますが、自身にとって3年目の2016年には初めて規定投球回数をクリアしシーズンを通して活躍しました。
田中の非凡さは、その勝率にあります。日本時代は99勝35敗で勝率.739。メジャー移籍後も39勝16敗で勝率.709(2016年までの数字)とともに勝率7割を超えています。日本プロ野球での歴代勝率1位は、藤本英雄の.697であり、現役のメジャー最高投手といわれるクレイトン・カーショー(ドジャース)でも.681(130勝61敗)です。通算の試合数を何試合にするのかで大きく変わってきますが、2017年現在は現役1位かつ歴代1位という素晴らしい数字を残しています。