福原愛について

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名前福原愛(フクハラアイ)
生年月日1988年11月1日
日本
出身宮城県仙台市
プロフィール3歳から卓球を始めると、毎日の英才教育にもめげず、瞬く間に天才少女の名をほしいままにする。幼稚園時代からあらゆる大会で優勝を重ね、小学4年生で卓球女子プロ選手第一号に。15歳、史上最年少でアテネ五輪に選出されると、日本の第一人者として4大会連続で日本代表として五輪に出場。

北京五輪では史上最年少で開会式旗手も務める。中国スーパーリーグに参戦して実力をつけると、ロンドン五輪団体では日本卓球史上初のメダル獲得となる銀メダル。リオ五輪ではシングルス4位、団体銅メダルと2大会連続でメダル獲得。2016年9月に卓球台湾代表の江宏傑と結婚。

最高世界ランク4位(2015年10月)。青森山田高校卒、早稲田大学中退、全日本空輸(ANA)所属、身長155cm。

若干3歳で卓球デビューすると、あふれる才能で天才少女と名を馳せる

福原愛の卓球との出会いは3歳当時の1992年です。10歳年上の兄が卓球を続けていたこともあって、自然にラケットを握りました。ここから母親による英才教育がスタートすると、休みは年に3日程度という毎日数時間の練習をこなしていきました。当時、おでこと卓球台の高さが同じくらいの身長でしたが、懸命に練習を重ねると瞬く間に急成長します。幼稚園児ながら小学生だらけの大会に出場すると、いきなり優勝を飾ります。さらに全国大会でも快進撃を続けたこともあってマスコミが集結するようになり、天才卓球少女として大きく露出するようになりました。あふれんばかりの笑顔もあれば、厳しい練習中や試合中の劣勢時、涙を流すシーンも多く、泣き虫愛ちゃんとしても国民的アイドルとなっていました。

1993年9月、5歳10ヶ月の幼稚園児が、全日本選手権バンビの部(小学2年生以下)において史上最年少で優勝すると、そこから同大会4連覇を飾ります。さらに様々な大会でも、次々と史上最年少記録をと打ち立てていきました。

小学4年生でプロ宣言し、史上最年少でアテネ五輪へ出場

若干10歳で卓球女子プロ選手第一号としてミキハウスと専属契約を締結し、拠点を大阪に移します。ここで、後に自身の代名詞ともなった、球を3メートル近く高く投げて、強烈な回転をかける「王子サーブ」を会得しました。天才少女は、その名の通り同年代では敵無しとなり、年上の選手も次々と退けていきます。2000年には、若干11歳でありながら、日本代表に選出されるという恐ろしい小学生でした。その後、スポーツ名門校として現在でも有名な青森山田中学が開校すると、その年に転校します。さらに環境が整うと、中学1年で全日本ジュニア優勝を飾り、3連覇も達成しました。もはや高校生でも相手にならず、シニア向け大会でも勝利を収め、夢のまた夢と語っていたアテネ五輪出場が現実味を帯びてきました。

オリンピックイヤーの2004年、青森山田高校に進学します。すでに日本代表として世界戦を戦っていた福原愛は、日本女子最後の3枠目の座を勝ち取り、史上最年少15歳でオリンピック初出場が決定しました。女子シングルスに出場し、他2選手同様、4回戦敗退という悔しい結果となりましたが、日本国民の注目度は最高潮で、福原の試合はゴールデンタイムで放送されるほどでした。同大会の試合中に何度も連呼した「サー!」という掛け声も、天才少女の代名詞となりました。

中国スーパーリーグで武者修行し、2度目のオリンピックに出場

初の五輪でベスト16入りを果たしましたが、さらなる高みを目指して世界一の卓球王国である中国挑戦をスタートします。中でも最強リーグと呼ばれていた中国超級(スーパーリーグ)に参加し、文字通り武者修行に挑みました。日本では考えられない移動距離に、言語の違いなど様々な困難に直面するも、強豪相手としのぎを削った結果、2005年には世界ランクを16位まで上昇させていました。

心技体で成長し、二度目のオリンピックを翌年に控えた2007年には、早稲田大学へ進学しました。当初こそ大学の試合にも出場していましたが、後に個人練習に重きを置き、2008年北京五輪日本代表に内定します。さらに、史上最年少で日本選手団の開会式旗手に任命されるという栄誉も手にしました。期待がかかる個人シングルスは、4回戦で当時世界ランク1位の張怡寧(中国)に破れ、アテネ同様ベスト16で敗退。平野早矢香、福岡春菜と3人で出場した団体戦では敗者復活戦を勝ちあがり、3位決定戦に挑みましたが破れ、初のメダル獲得は実現しませんでした。

卓球を始めて20年、ロンドン五輪で悲願のメダル獲得を実現

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2度目のオリンピックを終えた時点でもまだ10代だった福原愛は、3度目の出場に向けてさらに卓球に専念します。早稲田大学卓球部での活動は休止し、海外ツアー、特に中国スーパーリーグ参戦を優先しました。結果的に、単位取得は困難となり大学中退という決断もしました。

日本女子卓球界を長くリードしてきた福原ですが、ついに自身よりも年下で強力なライバルも現われていました。それは愛ちゃん2世と呼ばれた5歳年下の石川佳純。福原は国内大会でシングル優勝が少なく、全日本選手権でも石川に先に優勝をさらわれます。しかし、オリンピックイヤーの2012年、その石川を決勝で破り、挑戦13回目にして初めて全日本選手権で優勝します。この優勝で全日本の出場可能な部門全てで優勝を飾るという史上初の全日本グランドスラムも達成しました。そして福原、石川、平野早矢香の3名がロンドン五輪日本代表として選出されました。

シングルスに第5シードとして出場した福原は、3大会目にして初めて4回戦の壁を突破してベスト8入りします。しかし準々決勝は丁寧(中国)という2017年現在でも世界ランク1位の前に屈しました。そして団体戦では日本中を歓喜の渦に巻き込む善戦を見せてくれます。準決勝では全員が活躍して強敵シンガポールに3-0と圧勝し、この瞬間、悲願だったメダル獲得が決まりました。決勝では王者中国に完敗しメダルの色こそ銀になりましたが、3歳からラケットを握って20年で、日本卓球史上初のメダルを手にし歴史に名を刻みました。

4大会連続オリンピック出場し、2大会連続の団体戦メダル獲得

ロンドン五輪後の福原愛は、故障の回復につとめ休養を続けました。2度の手術を経て、2013年1月に全日本選手権に出場して復帰を飾ります。2年連続で石川佳純との決勝戦となりブランク明けだったにも関わらず逆転勝利し連覇を達成しました。さらに同年の荻村杯国際卓球選手権大会では、日本人女子としてはじめてのシングルス優勝、翌年も同大会でダブルス制覇と好調を維持します。そして2015年には、ロンドン五輪でも敗れた世界王者の丁寧(中国)から初勝利も挙げて、世界ランキングを最高位の4位まであげていました。

2016年8月、かつて天才少女だった福原は、女子最年長で日本代表に選出され、石川、伊藤美誠の3人でオリンピックに挑みました。シングルスでは、初の準決勝に進出するも、準決勝、3位決定戦で破れメダルを逃します。そして前回大会に続くメダル獲得を目指した団体戦では準決勝で2敗するも、3位決定戦では伊藤とのダブルスで快勝して望みをつなぎました。するとシングルスで石川、伊藤がそれぞれ勝利を収め、見事シンガポールに勝利し涙の銅メダルを獲得。2大会連続のメダル獲得に貢献して、再び日本に感動を呼び寄せました。

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2016年9月、五輪終了後の熱覚めやらぬ中、卓球台湾代表の江宏傑との国際結婚を発表しました。現役引退を表明したわけではありませんが、しばらくは結婚生活を優先しています。もはや泣き虫愛ちゃんの面影はなく、大人の女性として第二の人生も歩み始めています。

VictorySportsNews編集部

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