松岡修造について

名前松岡修造(マツオカシュウゾウ)
生年月日1967年11月6日
日本
出身東京都千代田区
プロフィール慶應義塾幼稚舎5年生の1978年より、石黒修プロについてテニスを始める。慶應義塾中等部を経て慶應義塾高校に進学後、高校2年生の時にテニスの名門である福岡県の柳川高校へ編入学。世界的に有名なボブ・ブレットの指導を受けるため高校を中退し単身渡米、パーマー・アカデミー・ハイスクールに通いながらテニス漬けの日々を過ごした。

1986年9月にプロに転向、1987年3月にはヨネックスと契約を締結し、1988年には全英オープン(ウィンブルドン)やソウル五輪にも出場した。1988年の世界ランキングで76位、翌年60位までランキングを上昇させ、日本を代表するプレイヤーとなる。
1991年の全英オープンでは、当時世界ランク5位だったルイシュ・マター(ブラジル)を破って日本人として14年ぶりに2回戦に進出。
1993年の韓国オープンツアーでは日本男子としては初の優勝、バルセロナ五輪にも出場し、1995年に行われた全英オープンでは、日本人としては62年ぶりにベスト8に進出という快挙を成し遂げた。
1998年全英オープンの予選に敗退後、代表を辞退、翌年4月のジャパンオープンを最後に現役を引退。

世界ランキングは1993年7月の46位が最高で、1997年にテレビ東京アナウンサー 田口恵美子と入籍。
引退後はスポーツキャスターの他、タレントとしても2001年「くいしん坊!万才」の11代目“くいしん坊”に選ばれ、活躍。
ベストドレッサー賞(1991年)、GQ Men of the Year (2015年)、ユーキャン新語・流行語大賞トップ10(2015年)などの受賞歴があり幅広く活動している。

慶應義塾高校・柳川高校中退、パーマー・アカデミーハイスクール卒、バックハンド、右投げ両手打ち、188㎝85㎏。

名家で育つ幼少期、8歳の時にテニスに出会う

父は東宝会長の松岡功、曽祖父は阪急グループ創始者として名高い小林一三という実業家一家に生まれ、慶應義塾幼稚舎に通っていた8歳頃(1975年)にテニスを始めました。

小学5年生だった1978年からは名門テニスクラブである桜田倶楽部に通い、石黒修プロの指導を受けて技術を磨きました。

16歳でテニスに専念のため名門高への転校を決意

慶應義塾中等部に進学後も実力を伸ばし、1981年には全国中学生テニス選手権大会で優勝するなど、頭角を示すようになります。

その後、1983年に慶應義塾高校に進学しますが、よりテニスの練習に集中したいという思いからテニスの名門校として知られていた柳川高校への転校を決意し、翌年に2年次編入学をしました。

柳川高校へ転校後も実績を上げ続け、インターハイではシングル、ダブル、団体戦の3冠達成に貢献したほか、「ウインブルドンへの道」という触れ込みで開催された国内ジュニア大会に出場し、優勝するなど更に実力を磨きをかけていきました。

ボブ・ブラッドコーチの指導により、プロとしてのキャリアをスタート

前年に引き続き1984年も「ウインブルドンの道」で優勝を果たします。世界の舞台で挑戦したいという思いから松岡は1年間高校を休学し、ヨーロッパ遠征へと旅立つ決意を固めました。

1985年のヨーロッパ遠征では全仏オープンジュニアで2回戦進出、ウィンブルドンジュニアで3回戦まで進出など一定の成果を上げ、手応えを掴みます。

その後は柳川高校に復学しましたが、さらなる高みを目指すためにボリス・ベッカー選手などの一流選手を育てた実績があるボブ・ブレッド氏の指導を受けるために単身渡米。現地のパーマー・アカデミー・ハイスクールに通いながら、指導を受ける日々を過ごしました。

松岡はボブ・ブレッドコーチの指導により徐々に頭角を現し、1986年に本格的なプロ選手としてのキャリアをスタートさせることになりました。

4大大会やオリンピックに出場、世界ランキングは100位以内に入る

1986年にプロ選手としてのキャリアをスタートさせましたが、約2年間は下位ツアーを転々とする日々が続きました。

しかし1988年に転機が訪れます。この年は全豪オープンの予選を突破し、グランドスラムシングルスの初出場を果たしました。さらに4月に行われたサントリー・ジャパン・オープンでは、当時世界ランキング7位のミロスラフ・メチージュ(チェコスロバキア)をベスト8に進出します。

同年秋に行われたソウルオリンピックにも出場を果たし、世界ランキングも前年の252位から82位と大きく飛躍させました。

翌1989年にはBP国際選手権で準優勝、ハイネケン・オープンではツアー初優勝を果たすなど順調にキャリアップを重ねていましたが、1990年には両膝の半月板を負傷してしまい、試合からの離脱を余儀なくされてしまいます。

代替出場のウインブルドンでベスト8達成も結婚を機に引退

長期の故障に苦しんでいた松岡でしたが、1991年には、後に世界ランキング1位になるピート・サンプラスをフルセットで下したほか、1992年の韓国オープンでは自身のキャリアで初となる優勝を成し遂げるなど、復調の気配を見せます。松岡の優勝は、自身だけではなく、日本人としても初のATPシングルスのタイトル獲得で、テニス界に新たな歴史を刻むことになりました。

この実績が認められ世界ランキングは46位まで上昇、これが最終的に松岡の最高順位でした。以後2年間は5大会でベスト8入りを果たすものの、世界ランキング100位付近で伸び悩み苦しい戦いを続けていた松岡でしたが、1995年に転機が訪れます。

この年の全英オープン(ウインブルドン)に欠員者の代替という形で出場し、接戦をものしながら勝利を重ね、見事ベスト8入り。これは佐藤次郎以来、日本人として62年ぶり(当時)の快挙でした。翌1996年のウインブルドン選手権では、2回戦のミヒャエル・シュティヒ戦で、松岡自身が長年の夢としていたセンターコートでの試合を実現させたほか、アトランタオリンピックに出場するなど、日本を代表する男子テニスプレーヤーとして活躍しました。

1998年2月、元テレビ東京アナウンサーの田口恵美子との結婚を機に、30歳の若さで現役を引退。その後はテレビタレントやテニス指導者として活動をしています。

書籍は100万部突破!情熱的なキャラクターを生かし引退後も活躍

引退後は、スポーツキャスターやタレントとしても大活躍しています。真剣な眼差しと情熱的なコメントで大人気になり、各種スポーツ大会の解説のほか、「くいしん坊!万才」の11代目“くいしん坊”に選ばれるなど、活動範囲は多岐に渡ります。
近年では日めくりカレンダー「まいにち、修造!」が発行部数累計100万部を突破するなど、その勢いは留まることを知りません。

本業のテニスでもジュニア世代の育成キャンプ「修造チャレンジ」を実施し、錦織圭などを発掘した実績を持つほか、日本テニス協会理事やMTCI横浜国際トーナメントのアドバイザーに就任するなど、後進の育成にも積極的に携わっています。

VICTORYアスリート名鑑

著者プロフィール VICTORYアスリート名鑑

VICTORYアスリート名鑑編集部のアカウントです。