桑田真澄について

名前桑田真澄(クワタマスミ)
生年月日1968年4月1日
日本
出身大阪府
プロフィールPL学園時代、1年生の時から甲子園に連続5回出場し2度優勝。戦後最多の通算20勝をあげる。早大進学を表明していたが、1985年末のドラフト会議で巨人に1位指名され入団。入団劇はあらかじめシナリオが仕組まれていたのではないか、と話題を呼んだ。

1986年5月25日対中日戦にリリーフで初登板、3試合目の6月5日対阪神戦で完投初勝利をあげる。この年は2勝1敗、防御率5.14に終ったが、1987年はエースとして活躍、15勝をあげ、防御率1位と沢村賞を獲得した。1989年自身最多の17勝。1994年7月対阪神戦で100勝達成。同年8月対阪神戦でセ・リーグタイ記録の16奪三振を記録。同年最多奪三振とMVPを獲得。1995年5月右肘じん帯を損傷、10月米国で手術を受ける。1997年4月、661日ぶりに登板、勝利し復活。同年FA宣言するが残留。1998年対中日戦で通算1500奪三振を達成。1999〜2000年巨人の選手会長を務めた。

2002年に最優秀防御率のタイトルを奪い一時復活を見せるも、翌年からは不調が続き徐々にチームの構想から外れる。2006年オフにメジャー挑戦を表明。ピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を交わし、2007年6月には39歳にしてメジャーデビューを果たした。メジャーでは1勝を上げることができず、2008年に現役引退。

NPB時代の通算成績は、442試合、173勝141敗14セーブ、防御率3.55、2,761回2/3、1,980奪三振。最優秀防御率2回。最多奪三振1回、最高勝率1回、沢村賞1回、MVP1回、ゴールデングラブ賞7回、報知プロスポーツ大賞。MLB時代の通算成績は19試合、0勝1敗3ホールド、防御率9.43、21回、12奪三振。PL学園高校卒、右投右打、174センチ、80キロ。

PL学園時代、5季連続出場し不滅の金字塔である甲子園20勝を達成

大阪に生まれた桑田真澄は、小学3年生から野球をはじめると持ち前のセンスですぐに頭角を現します。中学時代にはチームのエースに君臨し、当時から球速と抜群のコントロールでその名は早くも知れ渡っていました。それでもPL学園に入学すると、高身長かつ全国からの集められた精鋭を前に、外野手転向を言い渡されます。しかし当時のコーチに投手として抜群の才能を見出されると、1年夏からベンチ入りし大事な府大会で先発に抜擢されました。このチャンスに2安打完封と格の違いを見せ付けると、同じく1年生で4番に座った清原和博とともにPL旋風を巻き起こします。 


背番号こそ11番ながら1年生エースとして甲子園のマウンドに上がると、快進撃が始まります。準決勝では当時無敵だった水野雄仁率いる池田高校相手に、自身も本塁打を放ち完封勝利を収めます。決勝戦も制し、いきなり全国制覇も成し遂げました。そこから5季連続で甲子園に出場し、優勝2回、準優勝2回と大活躍し、戦後誰一人達成していない甲子園20勝を達成します。さらに打者としても優れ、清原(13本)に次ぐ歴代2位となる通算6本塁打も記録しました。

まさかのドラフト1位指名で巨人入りし、2年目にはエースに

高校での大飛躍によりドラフトの目玉となりますが、自身は早稲田大学進学を希望します。そして盟友・清原はファンと公言していた巨人入りを夢見ていました。しかし巨人が、まさかの単独1位で桑田を指名し、会場はどよめきました。世間から様々なバッシングも浴びましたが、藤田元司、堀内恒夫と続く巨人のエースナンバー18を与えられ、プロ生活がスタートしました。

涙の西武ライオンズ入りした清原が、ルーキーイヤーから大活躍したのに比べ、1年目は2勝1敗と戦力にはなれませんでした。しかし2年目には早くもプロの水に慣れ、前半戦だけで12勝と大きく飛躍します。後半戦は勝ち星が伸びず、15勝に終わりましたが、防御率2.17で最優秀防御率のタイトルを奪い、10代にして沢村賞にも輝きました。3年目の1988年には、巨人史上最年少で開幕投手に抜擢されてエースの階段を登り始めます。2年目からは、6年連続二桁勝利も達成しましたが、特に1989年は、リーグ最多の249イニングを投げて20完投などキャリアハイの17勝をマークしました。また当時の巨人先発陣は超強力で斉藤雅樹、槙原寛己とで先発3本柱を形成し、他球団の脅威となっていました。

伝説の10.8決戦では3本柱最後の砦として登板し胴上げ投手に

1992年から2年連続負け越しと調子を落としましたが、1994年はフル回転でチームを支えます。同年の巨人は開幕から絶好調で首位を独走しますが、夏場以降に大失速します。前年までの不調を脱した桑田真澄でしたが、登板時に打線の巡り会わせが悪く、少ない援護の中チームを支え続けました。そして2位中日が怒涛の追い上げで首位巨人に並び、史上初めての同率首位同士の最終優勝決定戦となりました。

巨人・長嶋監督は、国民的行事としてナインを鼓舞し先発3本柱をつぎ込む意思でしたが最後の砦も桑田しかいないと決めていました。両軍主軸が怪我で離脱するという壮絶な試合となりましたが、巨人がリードした状態で7回からマウンドに上がります。そして期待通り3回を無失点に抑えて、優勝を決めると共に自身初の胴上げ投手となりました。獅子奮迅の活躍を見せたこともあって、初のシーズンMVPにも輝きました。

選手生命を脅かす怪我を負うも手術、長いリハビリを経て完全復活

前年に通算100勝もマークし、1995年は、目標とする名球会入りの200勝へ向けて10年目のシーズンをスタートさせますが大きな転機が訪れます。6月の阪神戦において、ピッチャー前への飛球にダイビングキャッチを試みましたが、その際に右肘を負傷してしまいました。この怪我は思いのほか重傷で、靭帯を移植する手術(トミー・ジョン手術)を受けることを選択し、右肘にメスを入れました。

1996年シーズンを全て棒にふり、長く辛いリハビリを過ごしました。そして1997年開幕第3戦で桑田は東京ドームのマウンドに帰ってきます。運命の糸に導かれるように、その試合では、前年FAで巨人入団していた清原が、移籍初本塁打を放ち、復活を祝いました。同年は二桁勝利をあげる活躍を見せ、翌年は16勝とまさに完全復活を見せていました。

再復活するとタイトルを獲得し、西武を撃破しての日本一を達成

1999年からは一転して、不調が続き3年連続一桁勝利に留まりました。限界説もささやかれ始め、2001年オフには長嶋監督ばかりか、ともに先発としてチームを支えた斉藤雅樹、槙原寛己、さらには正捕手・村田真一らが揃って引退します。

自身も引退を強く意識していましたが、2002年から新たに指揮を執る原辰徳に説得され思いとどまりました。新たな試みとして、古武術をトレーニングや投球フォームに取り入れると、安定したピッチングが戻ってきます。4年ぶりの二桁勝利、そして15年ぶり2度目の最優秀防御率のタイトルにも輝きました。日本シリーズでは第2戦に先発して勝利し、巨人にとっての宿敵だった西武ライオンズを破っての日本一にも貢献します。しかしその後、桑田真澄が巨人のエースとして再び輝く事はありませんでした。2003年から再び不調に陥ると、登板機会は年々減少し、また現役引退がささやかれました。

再び背番号18を背負って39歳でメジャーリーグデビュー

巨人で通算173勝をマークし、2006年限りでの現役引退と思われていた桑田真澄はまさかのメジャー挑戦を表明し世間を驚かせます。そして同年12月、ピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を交わし招待選手として開幕メジャーを目指しました。

2007年、マイナーで調子を維持していた時期に、右足首の靭帯断裂という怪我を負い、そこでその挑戦が終わるという可能性も大いにありました。しかし、そこから懸命なリハビリを続けると再びチャンスがやってきます。チームは中継ぎ投手陣が崩壊し、コントロールの良かった桑田に声がかかることとなりました。さらに奇跡的にパイレーツの背番号18が空き番号となっていました。39歳にして馴染みある番号を背負い、6月のヤンキース戦でメジャーデビューを果たします。またマリナーズ戦では、イチローと最初で最後の対決を実現し、見事三振に切って取りました。しかし、憧れの地で勝利投手になることは叶いませんでした。結局、同年オフに戦力外通告を受け引退を示唆、2008年3月に充実感あふれた現役生活に別れを告げました。

現役引退後は、評論家として活躍しつつ、2009年には早稲田大学大学院に進学すると、2010年には主席で修了します。2013年には、東京大学硬式野球部特別コーチを務めるなど精力的に野球界で活動しています。

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