原辰徳について
名前 | 原辰徳(ハラタツノリ) |
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生年月日 | 1958年7月22日 |
国 | 日本 |
出身 | 神奈川県 |
プロフィール | 東海大相模高時代は父・貢監督の下、優勝こそ逸したが甲子園4回出場、父子鷹と話題をまく。東海大に進み、本塁打21本、三冠王2回、通算安打144本をマーク、首都大リーグの星に。1980年ドラフト1位で巨人に入団。2塁のあと3塁に定着、打率.268で新人王を獲得。その後、1983年に103打点で打点王となり、MVPを獲得。労働組合日本プロ野球選手会の2代目会長(選手長)を務めた。1995年10月シーズン終了後、引退、NHK野球解説者となり、1996年1月から1998年10月まで「サンデースポーツ」のキャスターを務める。また、読売新聞スポーツアドバイザー、報知新聞評論家なども務めた。1998年10月巨人コーチに就任。2001年シーズン終了後、監督に就任。
2002年に就任1年目ながら日本一を達成。2003年で一時退任するも、2005年から監督復帰。2007-2009年、2012-2014年と2度のリーグ3連覇に日本一2回を達成。2009年初頭には第2回WBC監督としても日本の連覇に貢献。 通算成績は1,697試合、6,012打数1,675安打、382本塁打、1,093打点、82盗塁、打率.279。打点王1回、新人王、MVP1回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞2回、正力松太郎賞3回。東海大学付属相模高等学校、東海大学卒、右投右打、181cm、88kg。 |
親子鷹として高校、大学時代に人気実力を擁するスターに成長
原辰徳は福岡県大牟田市で生まれます。そして7歳の時、父・原貢は福岡県の三池高校野球部の監督を務めており、無名だったにもかかわらず甲子園初出場で初優勝という快挙を成し遂げました。この手腕は、東海大学創始者に評価され東海大学付属相模高等学校監督に就任が決定し、小学校2年生のときに家族で神奈川県に転居しました。原少年も当然のように野球にのめりこみ、父が監督を務める高校に進学します。しかし、そこで親子の関係は一切打ち切られ、逆に他の部員よりも厳しく指導され鉄拳制裁も辞さないほどでした。それでも実力は抜きん出ており1年生からレギュラーを奪うと、夏3回、春1回と甲子園に4度出場します。1975年春には準優勝と躍進し、その甘いマスクから絶大な人気を手にしました。
圧倒的にプロスカウト注目となりましたが、東海大学に進学し、父も同時に大学の監督となりました。ここでも1年生からレギュラーとなると、3冠王を2度獲得、7季連続でベストナインを獲得するなど大学球界でも実力を発揮します。法政大学の江川卓との対戦など世間の盛り上がりは最高潮となり、スタジアムにファンが殺到する事態にまでなりました。
長嶋茂雄の再来として巨人に入団すると、期待に応えて新人王を獲得
長嶋茂雄のプロデビューした1958年に生まれ、大学時代の突出した活躍ならびに長嶋が監督を辞した1980年のオフにプロの門を叩くというめぐり合わせもあって「長嶋茂雄の再来」として大注目されます。そして、同年ドラフト会議において、新監督・藤田元司が4球団競合の末にクジを引き当て、まさに運命の糸に導かれました。
1981年、原は開幕戦に6番二塁手としてスタメン起用されてプロ野球人生をスタートさせます。初安打や初本塁打なども順調に記録し、シーズン途中からは正三塁手のレギュラーの座も確保させました。ルーキーイヤーの同年、打率.268、22本塁打、67打点を収め、見事に新人王に輝きました。
プロ3年目、4番としてMVPに生涯唯一のタイトル打点王を獲得し優勝に貢献
2年目の1982年からは4番でも起用されるようになり、まさに4番三塁手と長嶋の再来を実現します。そして33本塁打、92打点とともにリーグ2位の成績を残し、ON(王貞治・長嶋茂雄)に次ぐ巨人軍新たなスター誕生にファンは喜びました。
1983年には、初の打率3割に103打点で打点王獲得とさらに階段を登りました。当時表彰のあった勝利打点王、さらにはMVPを受賞しての優勝を味わいました。シーズン中に実現した打率3割、30本塁打、100打点は青田昇、長嶋茂雄、王貞治に次いで球団史上4人目でもあり、この頃から永遠の若大将と呼ばれるようになりました。
常にONと比較され続ける苦しい宿命を背負い、通算382本塁打で現役引退
1984年からは王貞治が監督に就任し、自身は不動の4番に定着します。タイトルこそ獲れませんでしたが当時プロ野球記録となる入団以来の12年連続20本塁打も放ち、巨人の主砲に君臨しました。4番としての出場試合数は1,000試合を越え、球団歴代4位にまで登りつめます。しかし、世間は原辰徳をONの後継者として見ているがゆえに、評価するポイントは彼らのような成績を残すことでした。一野球人としては好成績でも、ONには到底及びません。そのためマスコミやファンからの批判は集中し、酷評を受け続けました。
野球人生折り返しになると、故障が相次ぎ出場機会が減っていきます。あわせて、チームでは、松井秀喜の台頭、さらには落合博満、清原和博らFA補強組や新外国人も続々と入団し、自身はコンバートも繰り返すようになりました。1993年以降はついに出場試合数が三桁を割りましたが、少ない機会ながら入団以来の二桁本塁打を14年に伸ばします。そして15年目の1995年、ついにバットを置く決断をします。引退試合では、東京ドームのレフトスタンドに惜別の382号を放ち、涙でユニフォームを脱ぎました。
2002年巨人監督に就任すると、初年度に圧勝で日本一を達成
評論家、コーチ時代の6年間を経て、2002年から巨人監督に就任します。すると、引退も噂された桑田真澄を先発に、河原純一をクローザーに、そして清水隆行を1番打者に抜擢した柔軟な起用が当たります。さらに日本ラストイヤーとなった松井秀喜があわや3冠王を獲得するという好成績を残し、セ・リーグで独走優勝を飾りました。さらに、日本シリーズでは西武に4連勝と圧勝・優勝を実現し、監督就任1年目での日本一を達成しました。
ところが翌年は一転して、首位に15.5ゲーム離された3位に終わります。松井の不在、さらには投手陣が崩壊したことが大きく響きました。そして急転直下で監督を辞任しますが、人事異動という不可解なものでした。
WBC連覇さらに巨人で3連覇2回と、ONを超える監督成績を残す
原が監督を辞めてからの巨人は、3位、5位と8年ぶりのBクラスとなり、2006年から早くも監督に再任します。初年度こそ負の流れを断ち切ることが出来ず4位となりましたが、2007年からは見事にリーグ3連覇を果たします。FAで小笠原道大、ラミレス、クルーンらを獲得し、その間に坂本勇人、松本哲也、山口鉄也ら生え抜き選手を育てました。そして2009年には自身2度目の日本一も経験しました。
また2009年シーズン前には、第2回WBC日本代表監督も兼務します。決勝トーナメントでは、先発要員だったダルビッシュ有を急増クローザーに抜擢するなど采配も的中し日本の大会連覇に大きく貢献しました。
2010年は首位と1ゲーム差の3位、2011年も同3.5ゲーム差の3位と惜しいシーズンが続きましたが、2012年から2度目の3連覇を実現します。前回同様のFA戦略で村田修一、杉内俊哉らを補強し、阿部慎之助、内海哲也、坂本ら生え抜き主力が順調に成長もしており、いずれも大差の優勝でした。勝利と育成の両輪で手腕を発揮し、監督としてONを越える7回のリーグ優勝に3回の日本一を達成し、2015年限りで勇退しました。