江川卓について

名前江川卓(エガワスグル)
生年月日1955年5月25日
日本
出身福島県いわき市
プロフィール作新学院高時代、1973年甲子園に春夏連続出場した他、2度の完全試合を含めノーヒット・ノーランを12回、145イニング連続無失点を達成、“怪物”と呼ばれる。法政大ではエースとして東京6大学野球で5回の優勝を経験、47勝を挙げた。1979年巨人に入団するとき、ドラフト制度の“空白の1日”を衝いて大きな社会問題となる。巨人のエースとして活躍し、最優秀選手1回、最多勝利2回、最優秀防御率1回獲得。プロ入り2年目から8年連続2桁勝利をあげる。1987年11月通算9年で引退。のち日本テレビ専属解説者として、「スポーツうるぐす」に出演する他、タレントとしても活躍。1998年にはドラマ「PU−PU−PU−」に出演。ワイン通としても有名で著書に「夢ワイン」がある。

通算成績は、266試合、135勝72敗3セーブ、防御率3.02、1,857回1/3、1,366奪三振。最多勝2回、最多奪三振3回、最優秀防御率1回、最高勝率2回、MVP1回、ベストナイン2回。作新学院高校、法政大学卒、右投右打、180cm、76kg。

元祖・怪物は甲子園でレベルの差を見せ付け、大会記録の60奪三振

現在まで、甲子園で「怪物」と呼ばれた男はたくさんいましたが、その元祖とも言えるのは江川卓です。福島県で生まれて幼少期から野球を楽しんでおり、単純な石投げでも大人を凌ぐ飛距離を出していました。中学から正式に投手となり、作新学院高校に進学すると、怪物伝説が幕開けしました。

快速球を武器に1年夏からエースとして登板すると、完全試合にノーヒット・ノーランなど快挙をいとも簡単に成し遂げていきます。それでもチーム力は弱く甲子園の切符を掴み取れずにいました。しかし2年秋に栃木大会、関東大会を制し、ついに甲子園の舞台で投げるチャンスがやってきます。3年春は、江川の大会とも呼ばれ、強敵を相手にねじ伏せていきました。ホップするストレートは、バットにかするだけで大歓声が起こるという当時はとても異常な状況でした。準決勝で敗れたものの、4試合で3完封、33イニングで60奪三振(大会記録)という驚きの成績を残すこととなります。

3年夏は県大会5試合で3度のノーヒット・ノーランを含む5完封で優勝し、打たれたヒットはわずかに2本、70奪三振で再び甲子園に帰ってきます。初戦は延長15回の死闘となり、23奪三振の完投でサヨナラ勝利を収めます。続く2回戦も延長戦、しかも雨中決戦となりました。0-0のまま、12回1死満塁のピンチを迎え、懇親のストレートを投じるも押し出し四球となり「怪物」の夏が終わりました。

法政大学時代はエースとして、チームを4連覇に導き黄金時代を築く

超高校級右腕投手の江川は、阪急ブレーブスからドラフト1位指名を受けましたが、入団を拒否し法政大学へ進学しました。そして高校時代に甲子園を満員にしたように、今度は神宮球場を野球ファンで埋め尽くす活躍を見せます。1年秋にデビューすると、いきなり7シーズンぶりの法政優勝に貢献しました。2年は明治大学の前に屈しましたが、3年春からは黄金時代の到来といわれた4連覇を成し遂げました。そして大学4年間で歴代2位の通算47勝をマークし、代名詞の奪三振数も当時歴代最多の443にまで伸ばしました。

実は大学2年の秋、江川は右肩を疲労骨折していました。当時はその衝撃的な事実は伏せられ、自身が引退したあとに明らかとなりましたが、以降万全の状態で投げことは一度もなく、引退を早めるきっかけともなりました。

大学4年間で進化した怪物は、ドラフト会議でクラウンライターライオンズからドラフト1位指名を受けましたが、またしても入団を拒否しました。大学卒業後はアメリカに留学をし、1年後に熱望する巨人入団を目指しました。

怪物がヒールに転落したドラフト史上最大の事件「空白の一日」

それから1年経った1978年ドラフト会議前日に、前代未聞の出来事が起こります。巨人は、同日独占交渉権が喪失したとの解釈をし、江川卓をドラフト外入団させるという強硬手段を発動しました。しかし、セ・リーグは即座にそれを無効とすると、巨人はまさかのドラフト会議をボイコットします。巨人不在のまま会議は進み、江川は4球団競合の末に阪神が交渉権を獲得しました。それを認めない巨人とで問題はこじれ、最終的には一度阪神に入団し、阪神の選手として巨人側とトレードする形で入団という前代未聞の決着となりました(協約上違反があり、結果的には交換トレードの形ではありませんでした)。

当時のコミッショナーは辞任し、巨人はエースだった小林繁を放出することとなります。そして、あまりの傲慢ぶりに世間のバッシングは最高潮となり、翌年の開幕から2ヶ月間、出場停止に近い自粛をすることになりました。

3年目には投手5冠王で胴上げ投手となるも、沢村賞には縁なし

憧れの巨人ユニフォームをまとい、1979年6月にプロ初登板を果たします。奇しくもそれは阪神戦となりましたが、まさかの3本塁打を被弾して敗戦投手デビューとなりました。それでもローテーションを守り9勝10敗で最初のシーズンを終えました。しかし2年目には早くもプロの水に慣れて最多勝、最多奪三振のタイトルを奪い、実力を示します。

そして3年目の1981年は、圧巻の成績でチームを日本一に導きます。同年は初の20勝をマークし、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、最多完封の投手5冠に輝きMVPを受賞しました。日本シリーズでも第1戦、4戦、6戦に先発して2勝を稼ぎ、胴上げ投手となりました。どうしてもウィニングボールが欲しかった江川は、狙ってピッチャーフライを打たせそれを実現するという離れ業も見せました。そして沢村賞項目も全てクリアしており間違いなく受賞と思われましたが、同僚・西本聖に奪われました(当時は記者投票)。4年目も3年連続の最多奪三振など、沢村賞項目すべてをクリアする成績を残しましたが、北別府学が受賞し、結局生涯一度も同賞を手にする事はありませんでした。

圧巻だった1984年オールスターゲームでの8連続奪三振

江川といえば、もちろんその豪腕から繰り出される剛速球が大きな特徴です。実際に対戦したバッターは、高校時代こそ最もスピードがあった時期だと言いますが、球種としてはストレートとカーブの2種類のみといっても過言ではありません。そしてその2種類のボールで快挙を達成しそうな瞬間もありました。

それは1984年のオールスターゲームであり、当時強力な打撃陣を擁したパ・リーグは同年第2戦まで5連勝を記録していました。第3戦に2番手で登板すると圧巻のピッチングをしていきます。並み居る打者を手玉に取り、8連続三振を奪います。江夏豊以来のオールスター9連続三振にあと1球とせまった時、カーブをバットに当てられて大記録達成はなりませんでした。それでも当然のようにMVPを受賞しました。

9年で135勝をあげて、太く短いプロ野球人生にピリオドを打つ

大学時代に肩を痛めていたこともあって、少しずつ成績は下降線をたどっていきました。それでも2年目から二桁勝利を逃すことはなく、8年連続で達成します。1985年に、3冠王を獲得したランディ・バース(阪神)に対しても、ストレート真っ向勝負を挑んでいたのは江川くらいでした。

1987年、32歳にして早すぎる現役引退を決断します。同年も13勝5敗と数字上では全く問題ありませんでした。しかし自身の調子が上向きだったときに登板した9月の広島戦、自慢のストレートを小早川毅彦に2打席連続本塁打(1本はサヨナラ)され、もう江川は自身のボールが投げられないことを悟ったのでした。通算9年で135勝72敗の勝率は.652。この勝率の数字は実は歴代3位という素晴らしい成績です。しかし歴代に名を刻む対象成績は、2000投球回以上となっているため、143イニング足りず歴代順位のランキングには出てきません。それでも、甲子園の「怪物」がプロでも突出した成績を残したことは紛れもない事実です。引退後は、何度も巨人の監督やコーチとして名前が挙がっていますが、現在までは一度も袖を通していません。

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