張本勲について

名前張本勲(ハリモトイサオ)
生年月日1940年6月19日
日本
出身広島県広島市
プロフィール高校野球の名門・浪商から1959年東映(現・日本ハム)に入団し、同年4番を打ち新人王。1961年首位打者となり、翌年は東映優勝の原動力となり、MVPを獲得。1976年巨人、1980年ロッテに移籍。同年打率.383のパ・リーグ記録樹立と同時に、日本プロ野球史上初の3,000本安打を、22年目の2,618試合目で本塁打により達成する。その後、3,085安打まで記録をのばす。首位打者7回(歴代1位)、3割以上は16度など数々の記録を持つ。ハングリー精神と人一倍の闘争心をもち、独特の広角打法により“打撃の職人”といわれた。1981年現役を引退し、評論活動に。韓国プロ野球の育成にも尽力し、韓国プロ野球コミッショナー特別補佐などをつとめる。1990年殿堂入り。

通算成績は2,752試合、9,666打数3,085安打、504本塁打、1,676打点、319盗塁、打率.319。首位打者7回、最多安打3回、最高出塁率9回、新人王、MVP1回、ベストナイン16回、韓国国民勲章。浪華商業高校卒、左投左打、181cm、85kg。

幼少期に被爆も経験し、貧困からの脱却を願いプロ野球選手を目指す

韓国人の両親を持つ張本勲は、広島にて生を受けましたが辛い幼少期を過ごします。六畳一間で家族が過ごすという貧困生活を強いられ、5歳の時には被爆によって姉を失いました。またこの時期には、後にプロ野球選手となった際にも苦しむことになる、右手の大火傷も負いました。終戦後には父も急死し、長い貧困生活から抜け出す為の手段としてプロ野球選手を夢見るようになります。

中学から本格的に野球をはじめ、右手の怪我のハンデをなくすために利き手を左手に変えました。高校ではもちろん甲子園を目指しましたが、広島では希望校に入れず、転校先では部員の不祥事などで甲子園に出場できないという不運にも見舞われました。それでも打者として頭角を現し、プロからの誘いを受けるまでに成長しました。

東映フライヤーズ時代、新人王に球団創設初優勝時にはMVP獲得

高校卒業後は、東映フライヤーズ(北海道日本ハムファイターズの前身球団)に入団し、パ・リーグでプロ野球人生をスタートします。そして当時のフライヤーズは、優勝はおろか2リーグ制移行前から、一度もAクラス入りしたことすらありませんでした。そして1959年、高卒ルーキーとしては初めてスタメンで起用されます。当初はプロのスピードに悩みますが、レギュラーとして出場し続け、後半戦には不動の4番に座りました。同年は打率.275、13本塁打、57打点、10盗塁の成績で新人王を獲得しました。

2年目には初の打率3割もマークし、安打製造機への道を歩み始めます。そして3年目の1961年、打率をさらに.336とあげて自身初の首位打者に輝き、チームを初のリーグ2位まで押し上げます。そして自身4年目の1962年、球団初の優勝を飾りました。打率は4位でしたが、ともにリーグ2位となる31本塁打、99打点と長打力でチームを牽引し、MVPにも輝きます。後に日本ハムファイターズとして生まれ変わったこともあり、これが東映時代唯一の優勝となりました。

パ・リーグ随一の安打製造機として活躍し7度の首位打者を獲得

そこから先は、長打力と安定性を兼ね備えた打者として、1960年代、70年代のパ・リーグを牽引していきます。グラウンド90度を全て使う広角打法を武器に、安打製造機と呼ばれるようになりました。1967年からは4年連続で首位打者を奪い、1970年の打率.383は16年もの間、日本記録でした。1972年には史上7人目の2000本安打を達成して6度目の首位打者となり、1974年には、現在の日本記録でもある7度目を獲得しました(イチローも7度獲得して現在は日本タイ記録)。安打製造機でありながら、チームの中軸を務めた張本勲は、本塁打も打点もリーグ随一の成績でした。しかし、同年代に野村克也がいた為に一度もタイトルを取れませんでした。

1973年、32歳のシーズンからは、自身の卓越した技術を教えるコーチ兼任としても活躍します。フライヤーズ、ファイターズ時代に入団してきた大杉勝男は、弟分としてかわいがり、自身の後を継ぐ4番打者に仕立て上げました。また晩年、ロッテに移籍した際には、誰もが批判する落合博満の神主打法に対し、唯一その才能を認めていました。

移籍した巨人ではOH砲を形成し、長嶋監督の初優勝に貢献

その豪快な性格から批判ともとられる言動は、球団から煙たがられオフには何度も移籍話が持ち上がりました。そんな時期に球団も身売りし、選手も次々とトレードで移籍をしました。そして、張本勲が次にユニフォームを着たのはセ・リーグ巨人でした。1974年で長嶋茂雄が現役引退し、翌年監督に就任しましたが、最下位にまで低迷していた時期でした。王貞治一人へマークが集中していた為、それを分散させる大砲として名が挙がりました。

1976年からの移籍が決まると、少年時代からの夢であった球団の一員になれたことで、多いに活躍します。移籍1年目から打率.355、.348と2年連続リーグ2位の打率を残し、長嶋巨人の初優勝、そして連覇に大きく貢献しました。目論見どおり、王とのコンビは驚異となりOH砲として恐れられました。しかし、主に左翼手を務めた守備においては、幼少期の怪我が原因でチームの力になれませんでした。

前人未踏の通算3000本安打に留まらない記録の宝庫

巨人4年目に、入団以来続けてきた三桁安打が達成できず打率も.263に終わり、衰えが見え始めました。しかし、プロ野球初の3000本安打まで39本まで迫っていたこともあって、ロッテオリオンズに移籍し現役を続けました。そして移籍1年目に本塁打で3000本安打を達成します。さらに同年には500本塁打も達成し、翌年に現役を引退しました。

通算3000本安打は張本勲以外誰も達成していない大記録(日米通算ではイチローが達成)であり、打率3割を16度、猛打賞251回は共に日本記録です(2016年現在)。ただ突出しているのは決して安打数だけではありません。通算本塁打数504本は歴代7位、通算打点1,676点も歴代4位という素晴らしい成績です。また強打者ながら319盗塁を記録していることも見逃せません。500本塁打、200盗塁を他に達成したのは、山本浩二と衣笠祥雄だけであり、通算のトリプルスリー(打率3割、300本塁打、300盗塁)もプロ野球史上で達成している唯一の選手です。

引退後は韓国プロ野球へ尽力し、長年コミッショナー特別補佐官も務める

現役引退後、監督やコーチの話はありましたが、一度もユニフォームを着ていません。しかし、両親の母国である韓国でのプロ野球実現には多いに貢献しました。引退翌年の1982年には韓国プロ野球統括団体であるKBOのコミッショナー特別補佐官に抜擢され、実に20年以上も同職を務め上げました。日本と韓国の橋渡しに尽力した功績は大きく、2007年には韓国最高の勲章「無窮花章」を授与されました。


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