古田敦也について

名前古田敦也(フルタアツヤ)
生年月日1965年8月6日
日本
出身兵庫県川西市
プロフィール立命館大学を経て、トヨタ自動車に入る。社会人野球時代には全日本に選ばれ、野茂や与田の球を受けた。ソウル五輪の銀メダリスト。

1990年ドラフト2位でヤクルトに入団。同年捕手のルーキーとしては1969年の田淵(元阪神)以来のオールスター出場を果たし、さらに盗塁阻止率で両リーグ最高の.527をマーク、ゴールデングラブ賞に輝いた。1991年13連続盗塁阻止の日本新をマーク、同年オールスター戦では3盗塁阻止しMVP獲得。同年打率.340で捕手として野村克也(1965年)に次ぎ2人目(セ・リーグ初)の首位打者となる。1992年のオールスター戦では史上初のサイクル安打を放ち、2年連続のMVPに。1992年プロ入り4年目で年俸1億円を突破。1993年セ・リーグMVPに。1995年年俸2億の3年契約を結ぶ。1997年日本シリーズMVPと2度目のセ・リーグMVPを獲得。同年正力賞受賞。また1995年より日本プロ野球選手会副会長を務め、1998年12月会長に就任。

1999年、年俸2億の5年契約を結ぶ。同年プロ選手から初めてシドニー五輪アジア予選代表に選ばれるが、本選への出場は辞退した。2001年8月左膝後十字靱帯を損傷。同年4年ぶり2度目の日本シリーズMVPを獲得。2005年、大学卒、社会人出身選手としては初となる2000本安打を達成。2006年からは2年間プレイングマネージャーを務めるも、2007年チームが最下位となる監督辞任ならびに現役を引退。球界を代表する捕手。

1995年フジテレビアナウンサーの中井美穂と結婚。通算成績は2,008試合、7,141打数2,097安打、217本塁打、1,009打点、70盗塁、打率.294。首位打者1回、MVP2回、ベストナイン9回、ゴールデングラブ賞10回、日本プロスポーツ大賞殊勲賞、川西市市民栄誉賞、正力松太郎賞、毎日スポーツ賞、兵庫県立川西明峰高等学校、立命館大学卒、トヨタ自動車出身、右投右打、182cm、80kg。

「メガネの捕手」を理由にドラフト指名から漏れる

古田敦也は兵庫県で生まれ、小学3年生から野球を始めました。そして最初のポジション決めの際、友人から半ば強引に勧められたのを機に捕手を始めることになりました。そのまま、捕手として中学、高校時代も野球を続けましたが甲子園には縁がなく全く無名の存在でした。大学進学にあたって、一般受験で立命館大学に合格しましたが、同時に受験勉強により相当な視力を失いました。そのため大学時代から眼鏡をかけるようになりましたが、野球の才能は一気に開花します。首位打者も獲得し、3年にはチームを2季連続優勝に導くなど、プロからも注目されるようになりました。上位指名を確約する球団も現われ、ひな壇でその瞬間を作りましたが、まさかの指名漏れとなって大きく挫折を味わいました。その大きな理由は、メガネの捕手は大成しないというプロ野球界の定説でした。

しかし逆に反骨心が生まれ、トヨタ自動車に進むとますます野球選手としてクローズアップされます。1年目から正捕手を任されると、1988年には日本代表としてソウル五輪に出場します。野茂英雄、潮崎哲也らとバッテリーを組んで、日本の銀メダル獲得に大きく貢献しました。

ヤクルト野村、「ID野球の申し子」としてルーキー正捕手に

大卒時よりも注目され、ヤクルトスカウトは特に古田敦也獲得に乗り出します。ドラフト会議には、翌年から指揮を執ることが決まっていた野村克也監督も同席しました。自身も捕手だっただけに不安を口にもしましたが、スカウトが思いを押し切りドラフト2位指名を敢行しました。

スカウトの古田レポートは、打撃力はないが捕手としての能力に長ける、とありました。野村監督も、キャンプでそのセンスや守備力の高さに惚れこみ、ルーキーをチームの正捕手に据える事を決意します。ここから監督がつきっきりでの指導が始まります。1球たりとも意味がない配球を許されず、ベンチでは常に傍に置かれました。1年目の1990年、Bクラス脱出は叶いませんでしたが、その強肩はリーグ1位の盗塁阻止率を記録し、新人ながらゴールデングラブ賞を受賞しました。

2年目は飛躍の年となります。配球を勉強したことで打撃成績が格段に向上し、落合博満とのハイレベルな争いを制して首位打者を獲得しました。捕手としては、野村監督以来二人目、セ・リーグでは初の快挙でした。さらにチームも首位と7ゲーム差の3位に食い込み、ヤクルトは着実に力を付けていました。

「優勝チームに名捕手あり」を自ら証明しチームは黄金時代に

1992年以降の古田敦也は、球界を代表する捕手という地位を不動のものとします。同年は、巨人、阪神と終盤まで優勝争いを演じ、14年ぶりのリーグ優勝を実現します。弱い投手陣をリードする捕手としてのみならず、打率.316(リーグ3位)、30本塁打(リーグ2位)、86打点(リーグ5位)と打撃でも大いに貢献しました。日本シリーズでは森祇晶監督が率いる西武との一戦となり、伊東勤との捕手対決でも大いに盛り上がりました。同年は3勝4敗で敗れるも、翌年も同じ顔合わせとなると、今度は4勝3敗で勝利してついに頂点に立ちました。

さらに1995年から7年間で、3度の日本一とヤクルトは完全なる黄金時代に突入します。1995年の日本シリーズでは、イチローとの対決が戦前からクローズアップされます。野村監督による事前のささやき戦術も功を制し、天才を封じて2度目の日本一を達成すると、3度目、4度目の日本一は、いずれも自身がMVPを奪って実現しました。現役時代に5度のリーグ優勝と、4度の日本一は紛れもなく、捕手・古田の存在がなければ実現しませんでした。

卓越した捕手技術力に、捕手らしからぬ打撃力を併せ持つ

捕手・古田敦也を語る上で、外せないのが盗塁阻止率です。確かに強肩でしたが、スローイングの速さ、正確さにはさらに定評がありました。ルーキーイヤーから5年連続でリーグトップの盗塁阻止率を記録しており、1993年の.644は2017年現在でも日本記録です。引退までにリーグトップを10度記録し、通算の阻止率も.462という高い数字です。1991年に出場したオールスターでは、パ・リーグの全3盗塁を全て阻止してMVPにも輝いています。

守備負担の大きい捕手でありながらも、通算打率.294と高い数字を残し、大卒、社会人出身者では唯一となる通算2000本安打も達成しました。1992年のオールスターでは、史上初のサイクルヒットを記録し、2年連続でMVPを奪っています。

選手会会長として、プロ野球12球団2リーグ制維持に貢献

プロ入り9年目の1998年、古田敦也は日本プロ野球選手会5代目会長に就任します。任期中の2004年にはプロ野球再編問題が勃発し球界は大きく揺らぎました。10球団1リーグ制移行を希望する球団オーナー側との交渉の先頭に立ち、12球団2リーグ制を訴えます。ファンの支持も得て、同年9月には史上初のストライキにまで発展しました。最終的には、新規球団の参入確約による12球団維持が決定しました。楽天ゴールデンイーグルスの球団創設ならびに、後の交流戦スタートと大きく野球界に貢献することになりました。

恩師・野村克也以来のプレイングマネージャー挑戦は2年で断念

2001年以降、ヤクルトは優勝から遠ざかります。古田敦也自身も正捕手として君臨し続け、2004年には39歳にして打率3割を達成しましたが、肩の衰えは顕著でした。2005年、5年ぶりにBクラス4位に転落すると、チームの再建を託されることになりました。恩師・野村克也以来、29年ぶりのプレイングマネージャー(選手兼任監督)の誕生です。

2006年シーズンが始まると、強力外国人3人を2番から5番にすえて攻撃的な野球を披露してファンを驚かせます。自身の出場は控え、ポスト古田の育成にも乗り出しました。代打出場時には「代打 俺」と告げたことも大きな話題を呼びます。しかし投手陣が崩壊し、Aクラス3位こそ死守するも勝率5割を割ってしまいました。2007年はさらに低迷が進み、まさかの最下位に転落します。すると成績不振の責任を執って辞任を選択し、現役も引退。プレイングマネージャー挑戦は2年で幕を閉じました。退団後は、野球解説者として過ごし、2015年には野球殿堂入り、プレーヤー表彰として選出されました。


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