佐々木主浩について

名前佐々木主浩(ササキカズヒロ)
生年月日1968年2月22日
日本
出身宮城県仙台市
プロフィール東北高時代、甲子園に3度出場、1985年には春夏ベスト8、甲子園通算7勝。東北福祉大学に進み、長身から真っ向投げ下ろす時速145キロの速球は大学球界一といわれた。1989年第18回日米大学野球選手権の代表に選ばれて活躍。

同年大洋(現・横浜)がドラフト1位で指名し、入団。1992年からリリーフエースとして活躍。1997年8月16連続セーブの日本新記録を達成。同年史上3人目の通算200セーブポイント(SP)を達成。同年10月日本プロ野球新記録の38セーブを記録。シーズン終了後の契約更改では1億5500万円昇給で、年俸3億3000万円となる。1998年6月通算217SPをマークし日本新記録を達成。同月17連続セーブを達成し、自身の日本記録を更新。また、22連続SPをマークし日本記録を達成。同年9月史上初の通算200セーブを達成。同月39セーブを記録し、自らの日本記録を更新。10月チームの38年ぶりのリーグ優勝と日本一に貢献。正力松太郎賞、セ・リーグMVPを獲得。シーズン終了後の契約更改では、史上最高年俸の5億円となる。1992年、1995年〜1998年最優秀救援投手。“ハマの大魔神”の名で親しまれる。

1999年1月正力賞賞金などを曹洞宗国際ボランティア会に寄付、タイ・バンコクのスラムに暮らす子どもたちに教育支援を目的とする、佐々木投手アジア教育・福祉奨学基金が設立された。

同年8月右ひじ尺骨神経はく離手術を受ける。同年11月FA宣言し、12月大リーグのシアトル・マリナーズに3年契約で移籍。2000年4月対レッドソックス戦で初セーブ、5月対ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム戦で初勝利を挙げる。10月大リーグ新人記録の37セーブを挙げ、チームのプレーオフ進出に貢献。また1995年の野茂英雄投手(当時ドジャース)がナリーグで獲得して以来、日本人選手として2人目となるア・リーグ新人王を獲得。2001年4月には13セーブを挙げ、メジャーの4月月間最多記録を達成。7月日本人投手としては野茂投手以来2人目となるオールスターに選ばれる。8月対アストロズ戦でメジャー通算71セーブ、横浜時代の229セーブと合わせ日米通算300セーブを記録。同年45セーブを挙げるなど、4年ぶり3度目となる地区優勝に貢献。メジャー4年間で129セーブをマークし、2004年からは古巣横浜に復帰。同年前半こそ活躍するも、救援失敗が続き二軍降格。2005年に一時は現役続行も、8月現役引退を表明。

NPB時代の通算成績は439試合、43勝38敗252セーブ、防御率2.41、627回2/3、851奪三振。最優秀救援投手5回、MVP1回、ベストナイン1回、宮城県スポーツ賞(特別賞)、宮城県民栄誉賞、正力松太郎賞、毎日スポーツ人賞。

MLB時代の通算成績は228試合、7勝16敗129セーブ、防御率3.14、223回1/3、242奪三振、ア・リーグ新人王。東北高校卒、東北福祉大学卒、右投右打、190cm、110kg。

東北高校時代、エースとして3季連続で甲子園に出場

宮城県仙台市で生まれた佐々木主浩は、幼少期、現在の風貌からは考えられないほど虚弱体質でした。食も細く体を丈夫にさせるために、小学4年生から野球を始めます。するとすぐに4番エースを任されるほど、野球の才能を発揮しました。そしていつしかひ弱な身体ではなくなっていきます。

中学時代も野球を続けると、東北高校野球部監督のスカウトを受け進学を決めます。2年生で早くもエースの座を射止め、その夏から3季連続で甲子園出場も果たしました。全10試合に登板し、9試合に完投して防御率1.23という素晴らしい投手成績に加え、打者として本塁打も記録しています。3年春、夏にはともにチームをベスト8に導きました。

東北福祉大学時代、後の代名詞となるフォークボールを取得

地元の東北福祉大学に進学してからも野球を続けると、全日本大学選手権で2年連続準優勝するなどチームは絶頂期を迎えました。しかし佐々木主浩は、当時ストレート一本屋であり、狙い打たれることも多く新たな決め球の習得を試みます。人並みはずれた握力を生かす形で、後に代名詞となったフォークボールが誕生しました。これで最強になったと思いきや、佐々木は腰に椎間板ヘルニアを抱えており、大学時代は2度も手術を受けました。結果的に長いイニングを投げることが不得手となります。そのため、大学時代からストッパーとして多くマウンドに上がりチームに貢献していました。

大学時代22試合で11勝0敗、防御率0.39という驚きの成績を残しましたが、腰の持病もあって自身はプロへの興味はさほどありませんでした。事実、指導者になるために教員資格を取得しています。しかし、人並み外れた投手センスをスカウトが見逃すはずがなく、1990年ドラフト会議で、横浜大洋ホエールズから1位指名を受けました。

ストッパーとして定着し、ハマの大魔神として恐れられる

当初は入団を渋っていましたが、説得されて横浜大洋ホエールズに入団します。ルーキーイヤーは先発登板も多く、不本意な成績に終わりました。しかし2年目に転機が訪れます。チームのストッパーだった遠藤一彦が故障し、シーズン途中からその代役を務めます。同年は117イニングを投げて6勝9敗17セーブ、防御率2.00と球団の期待に応えました。当時の抑え投手は1イニング限定ではなかったこともあって、同年は佐々木主浩が100イニング投球回を超えた生涯唯一のシーズンでした。

チームの信頼を得た佐々木は、翌年から不動のストッパーとなります。1992年は、盛田幸妃とのダブルストッパー構想が実現し、12勝21セーブで初の最優秀救援投手タイトルを手にしました。1993年からの2年間は故障に泣きましたが、1995年から同タイトルを4年連続受賞とまさに独り占めにします。150キロを越えるストレートに、伝家の宝刀フォークボールを武器に並み居る打者を牛耳り、他チームからは「ハマの大魔神」として恐れられました。1997年は、開幕から防御率0点台かつ無敗をしばらくの間続け、8月には月間14セーブをマークし、救援投手ながら月間MVPも獲得しています。そして同年は、当時キャリアハイの38セーブに防御率0.90という驚愕の成績で、チームを1979年以来の2位まで押し上げました。

38年ぶり日本一の立役者となり、球界最高年俸の称号も得る

前年の好調を維持したチームは、1998年セ・リーグ優勝争いの中心にいました。一度打ち出したら止まらないマシンガン打線と、ストッパー佐々木主浩を中心とした投手陣が一体となり6月から首位に躍り出ました。佐々木は前年すら上回る驚異の成績で、チームの勝利に貢献しました。6月にはセーブポイント日本新記録、9月には史上初の通算200セーブなどを記録し、さらには自らの持つシーズンセーブ記録も更新します。最終的には1勝1敗45セーブ、防御率0.64という成績で、チームの38年ぶりのリーグ制覇に貢献しました。

この勢いで日本シリーズも制し、ついに日本一まで登りつめます。シリーズでは、あまりの打線爆発に自身の登板は2試合のみで1セーブに終わりましたが、シーズンMVPは文句なしで受賞しました。同年オフの契約更改ではイチローと共に史上初の5億円を突破し、名実共に球界を代表するプレイヤーへ登りつめました。

メジャー時代もDAIMAJINとして4年間で129セーブをマーク

1999年、シーズン中に故障をしてしまいましたが、FA権を取得しました。そして同年オフにFA宣言してメジャーリーグへの挑戦を表明し、シアトル・マリナーズとの3年契約を締結します。キャンプで競争に打ち勝って、開幕をクローザーとして迎えました。前年に手術を受けていた為、調子を取り戻すのに時間がかかりましたが、6月以降は同ポジションに定着して、37セーブをマークします。チームはプレーオフ進出を決めて、自身もア・リーグ新人王に輝きました。日本でハマの大魔神として恐れられた右腕は、電光掲示板に「DAIMAJIN」と表示されて同じくクローザーの道を歩み始めました。

2年目に45セーブ、3年目も37セーブと順調にセーブ数を稼ぎ、通算100セーブをメジャー最速で記録しました。同年オフには、日本プロ野球名球会入り条件に250セーブが加わり、なおかつ日米通算成績でも可となります。その瞬間、佐々木主浩の名球会入りも確定しました。そして球団がオプションを行使して延長した4年目を前に、右肘手術を受けて臨みました。しかし自身の不注意による怪我などがあって、10セーブに留まり防御率はメジャー在籍期間最低の4.05に終わりました。この時点で契約をまだ残していましたが、家族との時間を理由に、メジャー挑戦を終えることを表明しました。

横浜に復帰するも、かつての火消しぶりは鳴りを潜めて現役引退

2004年シーズンを、36歳で迎える佐々木主浩は、古巣である横浜ベイスターズに復帰します。すでにかつての豪腕の姿ではありませんでしたが、制球力と経験で前半戦を1勝18セーブ、防御率0.92という成績で乗り切りました。後半戦の開幕で、日本記録の289セーブポイントをマークしましたが、8月に連続して救援に失敗します。さらにその負けを引きずり、まさかの三者連続本塁打を浴びて、初の3試合連続救援失敗を経験しました。

一度は引退表明するも撤回して臨んだ2005年、もう佐々木は限界に達していました。短い期間で、3度の逆転サヨナラ負けを演出してしまい、二軍降格となります。その後復帰を目指しましたが叶うことなく、シーズン中の8月に現役引退を表明しました。日米通算381セーブをマークした大魔神は、同月に行われた地元仙台での試合で、盟友・清原和博相手に三振を取って、それを引退試合としました。


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