小笠原道大について

名前小笠原道大(オガサワラミチヒロ)
生年月日1973年10月25日
日本
出身千葉県千葉市
プロフィール暁星国際高等学校、NTT関東を経て、1997年ドラフト3位で日本ハムに入団。内野手として入団したが、捕手としての素質も高く、1998年より捕手で登録。1999年(〜2016年2月)小笠原諸島の観光親善大使に任命される。同年一塁手にコンバート。ベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞。

2000年対近鉄戦でパ・リーグ新記録となる通算120得点をマーク。同年最多安打賞を獲得。2001年8月プロ野球記録となる17試合連続得点をマーク。同年最多安打賞。2002年から2年連続で首位打者、2006年には本塁打、打点で2冠王などリーグを代表する打者として活躍。2006年はMVPも獲得してチームの日本一に貢献。2007年からはFAで巨人に移籍。移籍初年度に両リーグMVPを獲得して、同年からのリーグ3連覇に貢献。移籍後4年連続で打率3割、30本塁打を達成。2011年に通算2000本安打を達成するも、統一球の影響で大きく成績を落とす。2014年から、FA宣言し中日へ移籍。2年間、代打の切り札として活躍するも2015年限りで現役引退。2016年からは中日ドラゴンズ二軍監督に就任。

通算成績は1,992試合、6,828打数2,120安打、378本塁打、1,169打点、63盗塁、打率.310。首位打者2回、本塁打王1回、打点王1回、最多安打2回、最高出塁率1回、MVP2回、ベストナイン7回、ゴールデングラブ賞6回。暁星国際高等学校卒、NTT関東出身、右投左打、178cm、82kg。

高校通算0本塁打の無名選手が、社会人5年でプロから指名

小笠原道大は千葉県で生まれ、7歳から野球を始めます。いわゆる投手で4番のような、チームで突出した選手ではなく、捕手も含めて内野、外野どこでもこなせるユーティリティプレイヤーでした。それでも練習熱心な野球少年は、中学時代も千葉西リトルリーグに所属してバットを振り続けます。そこに、暁星国際高等学校の監督が別の選手を獲得する目的で訪れます。しかし、お目当ての選手はすでに進路が決まっており、いわば代わりにと推薦されたのが小笠原でした。

ある意味仕方なく誘われて進学しますが、高校時代は無名の選手でした。複数のポジションを守れる為、チームには重宝されましたが高校通算本塁打は0本で、甲子園にも縁がありません。卒業後NTT関東に進み、野球を続けると少しずつではありますがその名を馳せていきます。捕手をしながらも打撃力が向上し、都市対抗の補強選手に選出されるようになります。社会人野球チームの新日鐵君津では松中信彦とクリーンナップを組んでベスト8進出に貢献しました。

バントをしない2番打者として日本ハムビッグバン打線に定着

NTT関東5年目の1996年、全国的には無名でしたがドラフト指名にかかり、日本ハムファイターズの3位でプロの門を叩きました。1997年、いきなり開幕で一軍入りを果たし、同年44試合に出場しましたが半数は捕手でのスタメンという期待の選手でした。2年目は捕手出場に加えて代打出場も多くなり、その打撃力も注目され始めます。7月にプロ初本塁打を放った際には、実は指の骨折が完治しておらず、小笠原道大のど根性さを受けて「ガッツ」という愛称も定着するようになりました。

3年目の1999年、小笠原にとっては飛躍の年となりました。打撃を買われて一塁手レギュラーを奪うと、開幕スタメン2番に抜擢されます。本来の2番打者といえば、制約も多く小技を求められます。しかし当時の日本ハムビッグバン打線は、小笠原をバントしない2番打者として定着させます。そして常にフルスイングした結果、チームトップの打率.285(リーグ7位)、83打点(リーグ6位)に、チーム2位の25本塁打(リーグ5位)と大爆発し、初のフル出場すら実現しました。結局シーズン終わってみれば、犠打0本に終わり以後のファイターズのラインナップに欠かせない存在となりました。

2冠王を獲得するなど、リーグを代表するバッターに成長

2000年以降も、安定した成績を残し、小笠原道大は球界を代表するバッターへと成長していきます。2000年は、打率3割、31本塁打をマークして、初タイトル最多安打を奪いました。同年は、24盗塁も記録しており、あわやトリプルスリー達成でもありました。2001年も連続で最多安打を獲得するなど首位打者争いの常連となると、2002年からは2年連続首位打者を獲得しました。そこからは、安定感を保ち、実に2000年から4年連続で打率3割、30本塁打をクリアしていました。

入団以降、一度も優勝経験がありませんでしたが、2006年自らが主役となってそれを実現します。同僚の新庄剛志が開幕早々に同年での引退を表明すると、チームはまさに一丸となりました。小笠原は、チームの主砲として打率.313、32本塁打、100打点と大活躍し、本塁打と打点でリーグ2冠王を獲得します。2002年からの首位打者と共に打撃3部門全てでタイトルホルダーとなり見事にリーグ優勝を実現しました。日本ハムは続く日本シリーズも制し、シーズンオフにはMVPも獲得するという最高の一年となりました。

巨人のリーグ3連覇に大貢献するも、後半は統一球に苦しむ

小笠原道大が日本ハムに入団した当時、本拠地は東京でしたが、2004年から北海道に移転していました。家族を千葉に残していたこともあって、2006年オフ取得していたFA権を行使して、東京に本拠地を持つ巨人への移籍を決断します。巨大戦力を持つ巨人は、過去にもFAで大打者を獲得していましたが、好成績を残し続けた選手はおらず、小笠原にとっては大きな挑戦となりました。

しかし、それを自らのバット一本で覆していきます。巨人3番打者としてスタートすると、パ・リーグ時代と変わらぬ成績を残します。前年に続いて打率3割、30本塁打をクリアし、終盤に中日、阪神を突き放して見事リーグ優勝を飾りました。小笠原は江夏豊に続く両リーグでの2年連続MVP受賞となり、これは史上初の快挙でした。2008年からは、同じくFAで移籍してきたラミレスと、不動の3,4番コンビを形成し、リーグ3連覇に見事に貢献します。2010年こそ、1ゲーム差で3位と4連覇を逃しましたが、移籍4年間は、すべて打率3割、30本塁打達成とまさに巨人史上最高のFA戦士となりました。

2011年からさらに2年契約を締結して臨みましたが、同年導入された統一球に悩まされます。5月に史上4番目の早さで2000本安打を達成しましたが、飛ばないボールに大きく打撃を崩し、さらには骨折による離脱で13年ぶりに規定打席未到達で終わります。悪循環は翌年も変わらず、かつての打撃は全く色褪せてしまいました。2012年オフには日本プロ野球史上最大の減額で年俸更改し、2013年の復活を目指しましたが巨人でのプレーは同年がラストシーズンとなりました。

中日時代は代打の切り札として活躍し、引退後は二軍監督に就任

巨人は3連覇の立役者を戦力外とはせず、2014年からはFA移籍という形で、中日のユニフォームを着ることになりました。40歳で迎えたシーズンは、レギュラーとしての起用ではなく代打の切り札として存在感を見せます。体力面は落ちても、一瞬にかける集中力は流石であり、少ない打席にもかかわらず打率3割をマークしました。しかし衰えを隠すことが出来なくなり、2015年限りでついに現役引退を表明しました。

そして2016年はそのまま中日のユニフォームを着続け、二軍監督に就任します。小笠原道大は、高校時代は全く無名だったにも関わらず通算2,120安打、378本塁打、そして歴代9位となる通算打率.310(2017年6月22日現在)という素晴らしい成績を残しました。その手腕を今度は育成に役立てるため、現在は日々汗を流しています。

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