石井一久について

名前石井一久(イシイカズヒサ)
生年月日1973年9月9日
日本
出身千葉県千葉市
プロフィール源小2年から野球を始める。リトルリーグの北千葉ポニーに入り、6年生の時関東大会で優勝。みつわ中時代は一塁手で、3年の時には日本代表に選ばれハワイ遠征に参加。東京学館浦安高で投手に転じ、甲子園には出場できなかったが高校No.1投手として注目を集める。

1992年ドラフト1位でヤクルトに入団。1997年9月プロ野球史上65人、76度目のノーヒット・ノーランを達成。10月日本シリーズではシリーズタイ記録の12Kを達成。1998年奪三振王を獲得。2000年奪三振王と最優秀防御率のタイトルを獲得。同年3月フジテレビ・アナウンサーの木佐彩子と結婚。2001年、シーズン12勝を挙げて、日本シリーズでも活躍し日本一を達成。2002年からはポスティングシステムでメジャーリーグに移籍、ロサンゼルス・ドジャースに入団。初先発初勝利を挙げるなど、14勝をマーク。3年目も13勝し、4年目にはメッツに移籍。同年は怪我に悩まされ3勝に終わる。2006年から古巣ヤクルトに復帰し、2年で20勝をマーク。2008年からはFAで西武ライオンズに移籍。同年、11勝をあげてチームの日本一に貢献。2012年に4年ぶりの二桁勝利をあげるも、翌年末現役引退。現役引退後は吉本興業に所属。

NPB時代の通算成績は419試合、143勝103敗1S、4ホールド、防御率3.63、2,153回1/3、2,115奪三振。最多奪三振2回、最優秀防御率1回、最高勝率1回。

MLB時代の通算成績は105試合、39勝34敗、防御率4.44、564回、435奪三振。東京学館浦安高卒、吉本興業所属、左投左打、183cm、85kg。

全くプロに興味がなかった高校生が、ドラフト1位指名

千葉県に生まれ、幼少期は喘息もちだったことから、父に勧められて野球を始めます。しかし、元来の野球好きというわけでもなく、中学生時代には、サッカーを本格的に取り組んでいました。ただ中学3年生のとき、最後だからという理由で野球の試合に出場しました。その時に、ホームランを放ち、高校スカウトの目に留まります。

むしろ父のほうが息子をプロにさせたいという思いが強く、進学した東京学館浦安高校でも野球を続けることになりました。投手として高校野球をスタートします。当初は不慣れの為、失点を繰り返しましたが、高校3年になると「千葉の奪三振マシン」の異名をとり、夏の県大会では4試合で52奪三振という記録を打ち立てました。自身は全くプロ野球選手になるつもりはなかったものの一気に注目の的となり、1991年ヤクルトスワローズからドラフト1位で指名され入団しました。

高い潜在能力を持ちルーキーイヤーから起用される

ヤクルトは、石井が将来のエースになれる逸材として大きく期待しました。背番号16を与え、ルーキーイヤーから一軍でのチャンスを与えます。同年は未勝利に終わりましたが、日本シリーズで先発投手として抜擢されました。1勝1敗で迎えた第3戦という大事な日の登板でしたが、石井の潜在能力を買っての大抜擢でした。

球速150キロを越えるストレートに、切れ味鋭い変化球という武器を持ち、徐々に頭角を現していきます。2年目に初勝利を完投で飾ると、3年目には7勝をマークします。コントロールは安定しないものの、持ち味である奪三振はすでに特徴として現われていました。

驚異の奪三振率を誇るヤクルト黄金時代の左腕エース

4年目の1995年からは、チームの先発ローテーション投手として活躍していきました。同年は初めて規定投球回数に到達し、13勝4敗という成績で最高勝率のタイトルを手にしました。同年のヤクルトは、石井一久含めて5人の二桁勝利達成者を擁し、セ・リーグ及び日本シリーズも制覇して頂点に立ちました。翌年は左肩を故障し、思うように働けず長いリハビリ生活を送りました。

しかし1997年後半に復活すると、以後チームのエースとして活躍していきます。同年は後半戦だけで二桁勝利を挙げて首位のチームに勢いを乗せたばかりか、終盤には猛反撃で2位追走していた横浜ベイスターズ相手にノーヒット・ノーランを達成しました。その勢いのまま日本シリーズ第1戦では12奪三振で完封勝利を挙げて、日本一にも導きます。1998年は開幕投手を務めて、キャリアハイの14勝をマークし、241三振で初の最多奪三振のタイトルを奪いました。同年のシーズン奪三振率11.047は日本新記録でもあります。2000年は10勝9敗と勝ち星にこそ恵まれませんでしたが、最優秀防御率、最多奪三振と2冠を達成。翌2001年は12勝をマークし、4年ぶりの日本シリーズでも第1戦で見事勝利を収め、日本一の原動力となりました。

夢のメジャーリーグへ挑戦し、4年で39勝をマーク

ヤクルトで10年を過ごした石井一久は、初めて描いた夢の実現であったメジャーリーグへ挑戦しました。ポスティングシステムでしたが、自身が希望したロサンゼルス・ドジャースとの4年契約が実現し希望を胸に海を渡ります。初先発で初勝利を挙げるなど、いきなり1年目から14勝をあげてその実力を証明しました。しかし終盤の試合で、頭部に打球を受けて頭蓋骨亀裂骨折し、そのままシーズンは終了しました。

2年目に9勝、3年目に13勝と順調に勝ち星を伸ばしましたが、日本時代と変わらず与四球数が多く、3年目後半には中継ぎに降格し、4年目当初にメッツへのトレード移籍が決定します。新天地では故障が響き、初のマイナー降格も経験します。結局同年は3勝に終わりました。

ヤクルト古田敦也監督のもとで、日本球界に復帰

2006年から、日本球界に戻り古巣ヤクルトに復帰します。なぜならチームの監督に、かつてバッテリーを組んでいた古田敦也が選手兼任として着任したからでした。黄金時代が過ぎ前年はBクラスに沈んでいたチームにおいて、石井一久は年間を通してローテーションを守ります。そしてチームトップの11勝をあげて、Aクラス入りに貢献しました。

2年目の2007年も先発の軸として活躍します。勝ち星は9勝(チーム2位)に留まりましたが、5月には史上48人目の1,500奪三振を、プロ野球史上最速の1,423投球回で実現しました。しかし、防御率は4点台と安定感を欠き、チームは1986年以来の最下位に沈みました。古田監督も責任を取って辞任しました。石井は慰留されるも、前年に取得していたFA権を行使して新たな環境を模索しました。

奪三振スピード記録保持者は、200勝を目前にして現役引退

石井一久が、移籍先に選んだのは初のパ・リーグ挑戦となる埼玉西武ライオンズでした。この時点で、まだ現役バリバリの34歳で西武のローテーション投手として活躍します。かつての剛速球は鳴りを潜めてはいましたが、技巧派へと転身していきました。移籍初年度の2008年は、11勝をマークしてチームの優勝に貢献し、日本シリーズでも先発にリリーフとフル回転で活躍します。第7戦でも仕事をこなし、パ・リーグでも日本一実現に貢献しました。

2009年からは3年連続で二桁勝利を逃すも、2011年には史上20人目の通算2,000奪三振を、またしても日本最速記録で達成します。そして2012年、4年ぶりの二桁勝利を達成しました。しかし年齢からくる衰えや、怪我などから二軍生活も多くなります。2013年は怪我が回復せず、中継ぎの7試合登板でルーキーイヤー以来となるシーズン未勝利に終わりました。日米通算200勝まであと18勝に迫っていましたが、40歳を迎えて現役引退を決意します。日本が誇る奪三振マシンは、ヤクルト、西武2球団で5度の日本一に貢献し、グローブを置きました。現役引退後、吉本興業に契約社員として入社し、主に野球解説者として活躍しています。


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