野茂英雄について

名前野茂英雄(ノモヒデオ)
生年月日1968年8月31日
日本
出身大阪府大阪市港区
プロフィール池島ファイヤーズで野球を始め、池島小、港中、成城工を経て、新日鉄堺に入社。1988年都市対抗で若獅子賞を受賞、ソウル五輪では全日本のエースとして銀メダルに貢献。1989年インタコンチネンタルカップで39個の奪三振王、アジア選手権で優秀投手。

同年ドラフト史上最高の8球団が1位指名、近鉄が史上最高の1億2千万で契約。1990年オープン戦でデビュー、1試合17奪三振(タイ記録)、4試合53奪三振(新記録)、4戦連続2ケタ奪三振(タイ記録)、7月新人2ケタ奪三振試合11(新記録)、8月5戦連続2ケタ奪三振(新記録)、9月250奪三振、10月2ケタ奪三振試合21(新記録)、奪三振286(パリーグ新記録)など次々と大物ぶりを披露し、“ドクターK”の異名をとる。オールスター戦にも出場。同年最多勝、防御率、勝率、奪三振、最優秀新人、ベストナイン、沢村賞、MVPの8冠を獲得、シーズン奪三振率(10.99)は江夏を抜くプロ野球新記録となった。

1991年6戦連続2ケタ奪三振、2年連続200奪三振、通算500奪三振を達成し、最多勝と奪三振王を獲得。1992年43回目の2ケタ奪三振をマーク(パリーグタイ,歴代3位タイ)。同年最多勝(4年連続)。1995年1月近鉄を退団し、2月大リーグ・ドジャースと契約。大リーグがスト中のため、3Aのアルバカーキに入団したのち、5月にドジャースに昇格、5回を投げて11安打無失点の好デビュー。日本人としては、30年振り2人目の大リーガーとなった。6月2日対メッツ戦で初勝利をあげたあと、7連勝し、7月には日本人として初めてオールスターに選ばれた。同年は13勝6敗で、ナ・リーグ新人王を獲得。1996年2月2年目の選手としては異例の3年契約(430万ドル)を結ぶ。同年8月には大リーグ通算400奪三振、2年連続200奪三振を達成。9月対ロッキーズ戦で自身初、大リーグでは196人目のノーヒット・ノーランを達成。1996年の戦績は16勝10敗だった。

同年11月日米野球には米国側投手として出場。1997年4月大リーグ登板66試合目で通算500奪三振を達成。同年の戦績は14勝12敗。同年10月右ヒジ遊離軟骨除去手術を受ける。1998年4月対ブリュワーズ戦で日本人初の本塁打を放った。同年5月マリナーズのランディ・ジョンソンとのトレード要員となるが交渉は決裂。6月自らトレードを志願し、メッツに移籍。1999年3月解雇され、4月カブスとマイナー契約、傘下の3Aアイオワに合流。同月メジャー昇格できず再び解雇となる。同月ブリュワーズとマイナー契約を結び、5月対ジャイアンツ戦でメジャー昇格、大リーグ通算50勝目を達成した。同年2年ぶりに2ケタ勝利を挙げる。同年9月対ダイヤモンドバックス戦で通算1000奪三振を達成。同年10月ブリュワーズとの契約交渉が決裂し退団。

2000年1月タイガースに入団。同年4月日本人初の大リーグ開幕投手となり、アスレチックスを相手に勝利する。同年12月FAでレッドソックスに移籍。2001年4月対オリオールズ戦で2度目のノーヒット・ノーランを達成。ナ・ア両リーグでの達成は史上4人目の快挙。同年6年ぶりとなる奪三振王を獲得。

ドジャースでの通算成績は45勝36敗。メッツでは4勝5敗。ブリュワーズでは12勝8敗。タイガースでは8勝12敗。150キロのストレートとフォークが武器。2008年限りで現役を引退。NPB時代の通算成績は139試合、78勝46敗1S、防御率3.15、1.051回1/3、1,204奪三振。最多勝4回、最優秀防御率1回、最高勝率1回、最多奪三振4回、新人王、沢村賞1回、MVP1回、ベストナイン1回。MLB時代の通算成績は323試合、123勝109敗、防御率4.24、1,976回1/3、1,918奪三振。最多奪三振2回。成城工卒、新日本製鐵堺出身、右投右打、188cm、104kg。

高校時代は無名も、ソウル五輪日本のエースとして銀メダル獲得

野茂英雄は大阪に生まれ、子供の頃から阪神タイガースファンでした。そしてTVで見た江川卓に憧れて、自らも投手として野球を始めます。小学生で地元の野球チーム「池島ファイヤーズ」に入り、そこから常にエースの座を渡しませんでした。すでに後に代名詞となるトルネード投法の原型は出来上がっていましたが、高校のセレクションにはすべて落ちてしまいました。仕方なく成城工業高校(現・大阪府立成城高校)に進学し、2年からエースとなりましたが、当時は1学年上の清原和博、桑田真澄のKKコンビが世間を席巻していました。そのため甲子園には全く届かず、卒業後は新日鉄堺に入社しました。

ここまで全くの無名の野茂でしたが、フォークボールを習得すると一気に日本代表にまで選出されるようになります。ソウル五輪では、日本のエースとして古田敦也とバッテリーを組み、銀メダル獲得に貢献しました。その後も、トルネード投法から繰り出すフォークで国際大会でも成績を残し、1989年ドラフトでは最大の注目となりました。

ドラフトでは8球団が競合し、ルーキーからタイトルを独占する大活躍

アマチュアNo.1投手の称号を手にし、12球団入団OKの姿勢を示したこともあって、野茂英雄には当時史上最多の8球団が1位指名しました。そして、近鉄バファローズが交渉権を獲得し入団します。初勝利に時間こそかかりましたが、日本タイ記録の17奪三振という驚きのデビューを飾ります。そこから快進撃を続けていきますが、当時近鉄監督の仰木彬が野茂のトルネード投法を全くいじらなかったことも吉と出ました。同年は、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手4冠に加え、新人王、沢村賞、MVPとあらゆるタイトルを独占しました。

2年目以降も野茂の快進撃は止まらず、4年連続で最多勝、最多奪三振のタイトルを獲得します。与えた四死球も4年連続でワーストでした、そして無類のスタミナを誇り、強打者揃いのパ・リーグにおいて猛威を振るいました。

近鉄と契約がこじれ、まさかのメジャーリーグ挑戦を表明

その後も、野茂英雄は近鉄、そしてパ・リーグのエースとして君臨すると思われました。しかし1994年に右肩を故障したこともあって、球団および後任監督との確執が明るみに出ます。複数年契約に代理人契約を希望する野茂に対して、球団はそれをはねつけました。そして近鉄以外でのプレーを阻止しようと、任意引退選手としての扱いをしたことで、野茂に残された道は当時のルールでは海外でのプレーのみとなりました。現在では、日本人メジャーリーガーのパイオニアと位置づけられていますが、選択肢がそれしか無かったというのが真相です。

こうしてメジャーとの交渉を始め、1995年2月、ロサンゼルス・ドジャースとの契約にこぎつけます。日本では実績を上げていましたが、メジャーでは全くの未知数だけに、年俸1,000万にも満たないマイナー契約からのスタートとなりました。

日本人2人目のメジャーリーガーは、トルネードで全米を虜にする

1995年当時のメジャーリーグは前年からストライキが続き、開幕が1ヶ月遅れとなっていました。ファン離れも顕著となっていましたが、日本から突如現われたトルネード投法が全米を席巻していきます。5月に村上雅則以来31年ぶりの日本人メジャーデビューを果たすと、1ヵ月後には初勝利をマークしました。その後も登板するたびに、豪快なフォームから多くの三振を奪い、ファンを虜にしていきます。いつしか、NOMOマニアという言葉も生まれ、野茂英雄が三振を奪うたびに、「K」ボードを掲げるファンでスタンドは埋め尽くされました。同年は13勝をあげて、いきなり最多奪三振のタイトルを獲得し、まさに野球人気復活の立役者となりました。

ナ・リーグ新人王にも選ばれると、さらにドジャースとの3年契約を締結します。すると2年目もさらに周囲を驚かせる快挙を成し遂げました。順調に勝ち星を積み上げ、9月に自身初となるノーヒット・ノーランを達成します。しかも、打者有利とされている高地の球場クアーズ・フィールドでの同記録達成は、2016年末現在でも野茂ただ一人です。2年目は16勝、3年目も14勝と3年連続となる二桁勝利をマークし、同じく3年連続で200奪三振とドジャースのエース格として大活躍しました。

7球団を渡り歩き、2度のノーヒッターなど日米通算200勝を達成

メジャー4年目の1998年、怪我もあって不調に陥ると、自ら志願してニューヨーク・メッツへトレード移籍しました。すると同年からは、所属チームを次々と替えるジャーニーマンとして多くの球団を渡り歩くことになりました。メッツでは不調に終わり、ブルワーズに移ると2年ぶりの二桁12勝をマークします。翌年は初めて、ア・リーグ球団のタイガースに移籍し、日本人初となる開幕投手も務めました。さらに翌年、レッドソックスへ移籍すると、初登板で2度目のノーヒット・ノーランを達成。両リーグでの達成は、史上4人目の快挙でした。同年はそのまま好調を維持し、13勝をあげて自身2度目の最多奪三振のタイトルを奪いました。

2002年からは、古巣のドジャースへ復帰します。同年入団した石井一久とチームのローテーションを支え、16勝をマークしました。翌年には開幕投手を務め、メジャー100勝を達成するなど前年と同じく16勝をあげて35歳のシーズンを締めくくりました。しかし2004年からは、年齢から来る衰えもあって苦しいシーズンが続きます。2005年には、日米通算200勝をあげるも、シーズンは5勝に終わりました。2006年からは、怪我の影響もあって2年間メジャー登板が無く、もはや引退かと思われました。2008年、復活してメジャーのマウンドにたちましたが、勝ち星を挙げる事はで来ませんでした。39歳だった野茂に対し、日本の楽天が獲得に乗り出しましたが、ついに現役引退を表明しました。

現役引退後も、野球受け皿拡大にクラブチームを設立

野茂英雄は、まさかのメジャーリーグ移籍から、12年間で123勝をマークしました。今や日本人のメジャー移籍は、叶わない夢ではなく目標へと変わりました。まさに野茂がリスクを犯して海を渡ったからこその結果です。この功績は大きく評価され、2014年1月に、日本プロ野球の殿堂入りを果たしました。表彰候補1年目での実現は、史上3人目です。

また自身が現役中に、社会人野球チーム「NOMOベースボールクラブ」を設立しています。相次ぐ名門チームの廃部により、その受け皿が激減している事は今でも問題となっています。自身が育った新日鉄堺も同様に姿を消しました。少しでも若い選手たちに活動の場を提供する目的でスタートしましたが、今では都市対抗野球大会にも参加し、全日本クラブ選手権で日本一に輝くなど実績を積み上げています。そしてついには、同クラブからプロ野球選手も輩出しています。

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