井川慶について
名前 | 井川慶(イガワケイ) |
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生年月日 | 1979年7月13日 |
国 | 日本 |
出身 | 茨城県東茨城郡大洗町 |
プロフィール | 小学校3年から大洗スポーツ少年団で軟式野球を始め、大洗南中ではエースとして茨城県大会に出場。水戸商に進学し、2年の秋、新チーム結成後エースとなる。
1998年ドラフト2位で阪神に入団。1999年5月対広島戦でプロ初先発初勝利。2001年4月対巨人戦でプロ初完投勝利を挙げる。2002年からは5年連続で開幕投手を務める。同年は14勝をマークし、初の最多奪三振のタイトルを獲得。2003年は、大車輪の活躍で20勝をあげて最多勝、最高勝率、最優秀防御率の投手3冠に加え、沢村賞、MVP、ベストナインも獲得し阪神の優勝に貢献。2005年も13勝でリーグ優勝に貢献。2006年まで5年連続二桁勝利をマーク、同年オフにポスティングシステムを行使してメジャーリーグに挑戦。 ニューヨーク・ヤンキースが落札し、5年契約を締結。しかし初先発で7失点KOされるなど成績を残せず、マイナーへ降格。2年目も成績を残せず2年間で2勝、防御率6.66と大きく期待を裏切る。残り3年間はメジャー登板が1試合も無く、2011年限りで解雇される。2012年からはオリックスと契約し日本球界復帰。しかし、怪我にも悩まされ、4年間で7勝に終わり2015年限りで解雇。その後、現役続行を宣言し、2017年からは関西独立リーグ・兵庫ブルーサンダーズの選手として活躍中。 NPB時代の通算成績は219試合、93勝72敗1S、防御率3.21、1,387回2/3、1,279奪三振(2016年まで)。最多勝1回、最優秀防御率1回、最多奪三振3回、最高勝率1回、MVP1回、沢村賞1回、ベストナイン1回。 MLB時代の通算成績は16試合、2勝4敗、防御率6.66、71回2/3、53奪三振(2016年まで)。水戸商卒、左投左打、185cm、84kg。 |
高校時代、甲子園未出場ながら、東のドクターKの異名をもつ
井川慶は、茨城県に生まれ、小学3年生から「大洗スポーツ少年団」で野球を始めます。実はサッカーも好きでしたが、中学時代はそのサッカー部が無く野球を続けました。その頃、野茂英雄がメジャーで大活躍したのを目にし、野球にのめり込みます。地元の強豪・水戸商業高校に進学すると、2年秋にエースになり甲子園を目指すようになりました。
3年春には、7回で21アウト中18三振を奪い、参考記録ながら完全試合を達成しました。東のドクターKとして名を馳せ、最後の夏は甲子園進出へ大きな期待がかかりましたが、腰痛を患いマウンドに上がることすら難しくなります。それでもチームは決勝までたどりつき、井川も痛み止めの注射を打ってまで登板しましたが、自らのエラーもあって敗れてしまいました。高校生活も終わりを迎え、自身は野球を辞めることすら考えていました。しかし、当時、能見篤史、川口知哉と並んで「高校生左腕三羽ガラス」とも呼ばれるほど井川の投手としての評価は上がっていました。そして1997年ドラフト2位という高評価で、阪神タイガースに指名されます。進学も考えた井川でしたが、腰の治療という意味ではプロへ進んだほうが専門的な治療を受けられると考え、プロ入りを選択しました。
阪神5年目に開幕投手を任され、2003年は20勝で沢村賞獲得
阪神入団後は、まず腰の治療に専念しプロとしての身体の強化に取り組みました。そして1年間をファームで過ごすと、後に自身にとって強力の武器となるチェンジアップも習得します。剛速球はすでに持ち合わせていたこともあって、2年目に一軍でも初勝利も挙げました。さらに3年目オフにチーム左腕の柱だった湯舟敏郎が移籍すると、4年目の2001年はローテーション投手として活躍しました。当時の阪神は暗黒時代で、同年も4連続最下位でしたが、井川はプロ初の完投勝利を挙げるなど、チームトップの9勝をマークしました。
そして星野仙一監督が着任した2002年、井川慶は開幕投手に抜擢されて見事完投勝利で星野阪神1勝目に貢献しました。同年は、ともにリーグトップの8完投、4完封を含む14勝をあげ、206奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得しました。翌年は、阪神18年ぶりの優勝に貢献します。途中、12連勝を記録するなど勝ち星を積み上げて、20勝投手となりました。最多勝、最高勝率、最優秀防御率の投手3冠を獲得し、沢村賞、MVP,ベストナインも受賞とまさに飛躍の年となりました。
5年連続二桁勝利で、球団からメジャー挑戦容認を勝ち取る
2004年、チームはBクラスの4位に沈みましたが、3年連続で200イニング投球回を達成し、14勝で2度目の最多奪三振のタイトルを獲得します。同年10月には、史上71人目のノーヒット・ノーランも達成するなど、井川慶は阪神のエースとして君臨しました。また、中学時代に憧れた野茂英雄同様、メジャーリーグ挑戦を球団に直訴するようになります。しかし、絶対的エースを手放すわけにいかない球団は、毎年のようにその希望を拒否しました。
2005年、4年ぶりに投手タイトルは無冠でしたが、先発の柱として13勝をあげて2年ぶりのリーグ優勝に貢献します。2006年も5年連続で開幕投手を務め、4度目のシーズン200イニングをクリアして、14勝と二桁勝利も5年連続に伸ばしました。そしてついに球団からは長年の功績を認められ、ポスティングシステムを利用してのメジャーリーグ挑戦を容認されました。
夢のメジャー挑戦も、飼い殺し状態の5年間を過ごす
奪三振率も高く、完投能力のある左腕にはメジャー数球団が注目を示し、名門ニューヨーク・ヤンキースが高額で落札します。そして5年総額2000万ドルという破格の契約も勝ち取り、ついにピンストライプのユニフォームに袖を通しました。しかし、高額な契約であることが、結果的には井川慶を苦しめることになります。4月に初先発するも5回7失点と結果を残せません。その後も不安定な投球が続き、中継ぎそしてマイナー降格も経験します。同年メジャー復帰しても、成績は上昇せず、初年度を2勝3敗、防御率6.25と大きく期待を裏切りました。
2年目もわずか2試合の登板のみに終わります。その間、他球団からのトレード要請が何度もありましたが、ヤンキースは入札金の負担も要求したことから移籍は実現しません。中継ぎへの転身を勧められるも、先発にこだわった井川がそれを拒否したため、3年目以降のメジャー登板機会は一度も与えられませんでした。結果的に3Aでしか投げることができずに終わります。結局、ニューヨークには汚点しか残せず、契約期間の5年間が過ぎてしまいました。
オリックスで日本球界復帰も、かつての面影無く戦力外通告
井川慶はメジャー挑戦5年間で全く爪あとを残せず、2012年からはオリックス・バファローズで日本球界復帰しました。この時点で32歳と年齢的にも若く、先発の柱として期待されました。しかし、中継ぎから先発への復帰は簡単ではなく、さらには度重なる怪我にも襲われます。自慢の球速も落ちてしまい、結局初年度は2勝7敗、防御率4.65と不本意な成績で終わりました。オフには手術を受けて新シーズンに臨みましたが、かつての井川のピッチングは戻りませんでした。2014年、開幕ローテーションを勝ち取りましたが、シーズンでは思うような結果を残せず、ついに2015年には解雇通告を受けてしまいました。
現役続行を宣言し、2017年現在も関西独立リーグで奮闘中
戦力外通告を受けましたが、井川慶はまだ野球を諦めていませんでした。そこから12キロ落とすというダイエットに成功すると、かつての球速を取り戻します。そこでまだ現役続行を目指しますが、井川は日本プロ野球だけに絞らず、自トレを続けながら代理人からの連絡を待ちました。そして2016年12月、関西独立リーグ・兵庫ブルーサンダーズと正式に契約を交わしましたが、契約金や報酬も0円という練習生契約という異例のものでした。2017年3月に晴れて支配下選手契約を締結し、同リーグで活躍の場を広げました。