秋山幸二について

名前秋山幸二(アキヤマコウジ)
生年月日1962年4月6日
日本
出身熊本県八代郡
プロフィール八代高時代は投手で4番を打ち、熊本県大会決勝まで進む。

1981年ドラフト外で西武に入団、打者に転向。1982年米国に留学、帰国後1984年から一軍に昇格、1985年には3塁手としてフル出場、40本塁打を記録。1986年も4番打者として41本塁打を打ち、優勝に貢献した。1987年本塁打王を獲得。1990年30本塁打、51盗塁を達成。1991年日本シリーズでMVPを獲得。1993年プロ野球史上2人目の9年連続30本塁打を記録。1994年ダイエーに移籍。同年10月通算350本塁打達成。1999年7月通算300盗塁を決め、史上2人目の400本塁打・300盗塁を記録した。同年10月日本シリーズでは史上最年長の37歳でMVPを獲得。2球団での獲得も史上初となった。2000年8月プロ2000試合目となる対ロッテ戦で、ドラフト制以降にドラフト外で入団した選手としては初の2000本安打を達成。2009年から福岡ソフトバンクホークスの監督に就任。2010年にリーグ優勝、2011年、2014年には日本一を達成して勇退。2014年野球殿堂入り。

通算成績は2,189試合、7,997打数2,157安打、437本塁打、1,312打点、303盗塁、打率.270。本塁打王1回、盗塁王1回、最多勝利打点2回、ベストナイン8回、ゴールデングラブ賞11回、正力松太郎賞3回。八代高卒、右投右打、186cm、86kg。

アスリートばりの身体能力で、ドラフト外でも大人気

秋山幸二は、父がハイジャンプ、母が砲丸投げ元選手というアスリートのDNAを受け継いで生を受けます。小学生時代から、その抜群の運動神経を生かして野球も始めました。地元の八代高校に進学すると、投手を任され3年時には4番エースで主将となりチームの柱になりました。進学校がゆえに、それまで甲子園出場経験はありませんでしたが、1980年、秋山が牽引して決勝戦まで進出しました。その相手は後のチームメイト伊東勤が正捕手を務める名門・熊本工業でした。試合には4-6と敗れ甲子園は夢と消えましたが、プロ12球団のスカウトが才能を高く評価していました。

同年ドラフト会議では当然注目されましたが、自身は九州産業大学進学を表明し、各球団も指名を回避しました。ところが、会議終了後に一転してプロ入り表明すると、4球団争奪となり、唯一打者としてのプロ入りを勧めた西武ライオンズへの入団が決定します。また、ドラフト外入団なら発生しないことが常の契約金が支払われました。

アメリカ野球留学中も評価され、メジャーに一番近い男と称される

入団時の根本陸夫監督、1982年からの広岡達朗監督は、秋山幸二の身体能力を高く評価します。大きく育てたいがゆえに、2年目、3年目とアメリカ教育リーグに派遣しました。すると、スラッガーとしての才能が開花し、アメリカの地でも大注目を浴びました。その時点で一軍出場はわずか3試合6打席でしたが、早くもメジャーに一番近い男として評価され、正式にオリオールズから譲渡の申し入れすらありました。

西武はすぐに秋山を呼び寄せると、1984年には開幕スタメンの座を手繰り寄せます。翌1985年には三塁手のレギュラーを奪いフル出場を果たすと、王貞治と肩を並べる史上最年少23歳での40本塁打を達成しました。

西武黄金時代を、走攻守で牽引する3番打者として君臨

1986年、西武監督に森祗晶が着任すると、伝説の巨人V9にも匹敵する黄金時代が訪れ、その中心には秋山幸二がいました。同年は5月から4番に座り41本塁打、115打点と打線を牽引しました。日本シリーズでは1分3敗という絶体絶命の状態から4連勝を飾り3年ぶり、自身が活躍してからは初の日本一を飾ります。第8戦で、値千金の同点2ランを放った際には、有名なバック宙ホームインを初めて披露しました。

1987年からは正式に外野手に転向し、3番に固定されると4番清原和博とともに強力AK砲を形成します。すると43本塁打で初の本塁打王を獲得し、さらに38盗塁と長打力と走力をともに披露します。強力投手陣も併せ持った西武は、1986年から1988年まで、阪急ブレーブス以来の日本シリーズ3連覇を達成しました。

1989年は、優勝した近鉄とわずか0.5ゲーム差の3位となりましたが、自身は打率.301、31本塁打、31盗塁でプロ野球史上5人目のトリプルスリーを達成しました。また同年途中から、デストラーデが加入してAKD砲と打線もグレードアップします。すると1990年からは再び日本シリーズ3連覇するという西武黄金時代となりました。秋山は、1990年、35本塁打、51盗塁で初の盗塁王を獲得、1991年は日本シリーズで4本塁打を放ち、MVPも獲得しました。1985年から6年連続含めた7度のフル出場、さらに1987年から外野手として7年連続でゴールデングラブ賞など、走攻守でチームに不可欠な選手となりました。こうして自身が完全にレギュラーとして定着した1986年からの9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一を達成しました。

電撃トレードで移籍したダイエーホークスを常勝軍団に変貌させる

1993年、秋山幸二は9年連続30本塁打をクリアしましたが、チームは日本シリーズで敗れ4連覇を逃しました。そして同年オフに、球界に激震が走ります。秋山幸二、渡辺智男、内山智之の3名と福岡ダイエーホークスの佐々木誠、村田勝喜、橋本武広との大型トレードが発表されたのです。この裏には、前年からダイエー監督に就任していた根本陸夫の意向が関係していました。西武入団時の監督だった根本は、弱小球団のホークスを劇的に変える為に、血の入れ替えが不可欠と判断したのです。1994年オフには、同じく西武からFAで石毛宏典、工藤公康を呼び寄せ、日本一を知るメンバーをさらに揃えました。

そして徐々にではあるものの、秋山たちの背中を見たホークスのメンバーは変化を見せていきます。練習に対する取り組み方など多くを吸収し、後のホークスの主力となった小久保裕紀、松中信彦、城島健司らが成長していきました。こうしてチーム力をあげて、移籍6年目の1999年を迎えます。前年は連続Bクラスの記録を20年で止め3位と躍進しており、いよいよ優勝を狙えるチームとなっていました。そして同年、秋山はダイエーの初代主将に就任しました。課題といわれ続けた投手陣が整備され、秋山も終盤は1番打者としてチームを牽引すると、福岡移転後初のリーグ優勝を達成しました。さらに日本シリーズでも4勝1敗でホークスとして35年ぶり、福岡移転後初の日本一にまで登りつめました。秋山は2本塁打にファインプレーと攻守に活躍し、西武時代に続くシリーズMVPも受賞しました。秋山たちの意識改革は見事成功し、以後、パ・リーグで常に優勝争いするチームに変貌しました。

2000年8月、2000試合出場目で通算2000本安打を達成して、ドラフト外選手として初の名球会入りを実現します。しかし、2001年シーズンを39歳で迎えた秋山にも年齢的な限界が近づいていました。そして2002年、通算20年の現役生活にピリオドを打ちました。400本塁打、300盗塁を達成し、外野守備でのゴールデングラブ賞11回は歴代2位(2016年末現在)というまさに走攻守で突出した成績を残しました。

ホークス監督として日本一を2度達成し、2014年勇退

現役引退後2年間の充電期間を経て、2005年からダイエーの後身・福岡ソフトバンクホークスの二軍監督に就任しました。2007年からは一軍コーチを歴任し、2009年王貞治監督の後を引き継ぎ一軍監督に就任します。初シーズンで好調なスタートを切り、交流戦も初優勝と順調でしたが、後半に失速し3位で終わりました。しかし2010年、ゲーム差無しでしたが西武を勝率で振り切り、初のリーグ優勝を実現します。同年クライマックスシリーズで敗れるも、翌年見事に史上初の11球団全てに勝ち越して連覇を飾ると、プレーオフを勝ち抜き、日本シリーズも8年ぶりに制覇しました。

2012年3位、2013年4位と、一時はBクラスに転落しましたが、2014年見事に復活します。同年は、オリックス・バファローズと最後まで優勝を争い、最終戦の直接対決でサヨナラ勝利して優勝を決めました。プレーオフ前に同年限りでの監督勇退が発表されるとさらにナインは一丸となり、クライマックスシリーズ、そして日本シリーズも制しました。まさに有終の美を飾り日本一を置き土産に監督を辞任しました。


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