和田毅について

名前和田毅(ワダツヨシ)
生年月日1981年2月21日
日本
出身島根県出雲市
プロフィール浜田高時代、夏の甲子園でベスト8。1999年早大に入学。140キロ台の速球と高速スライダーを武器に、2000年東京六大学野球・春のリーグ戦で、10試合に88個の三振を奪い、三沢興一(巨人)のもつ同大記録を塗り替える。早大4年間で476三振を奪い、江川卓のもつ東京六大学札三振記録を更新。4年には52年ぶりの春秋連覇を達成。

2002年、自由獲得枠で福岡ダイエーホークスに入団。1年目から先発ローテーション投手として活躍し14勝で新人王。その後も入団から5年連続二桁勝利を達成。2004年アテネ五輪野球日本代表にも選出され、先発2勝で日本の銅メダルに貢献。2010年は、キャリアハイの17勝で最多勝のタイトルを獲得、2011年も16勝し、チーム8年ぶり日本一に貢献。

2012年から海外FA権でメジャーリーグに挑戦。ボルチモア・オリオールズと契約するも、シーズン前に左肘異常が見つかり、手術で長期間戦線離脱。2年間一度もメジャー登板なく解雇され、シカゴ・カブスへ移籍。新天地でも2年間で5勝と怪我が癒えず2016年からは日本球界に復帰。福岡ソフトバンクホークスでは先発の柱として活躍し、15勝で最多勝と最高勝率の2冠に輝く。2017年開幕投手を務めるも、再び左肘痛で離脱。

NPB時代の通算成績は234試合、122勝66敗、防御率3.12、1,607回2/3、1,486奪三振(2016年まで)。最多勝2回、最高勝率1回、MVP1回、新人王、ベストナイン1回。

MLB時代の通算成績は21試合、5勝5敗、防御率3.36、101回2/3、88奪三振。浜田高校卒、早稲田大学卒、左投左打、179cm、72kg。

早稲田のドクターKとして、東京六大学奪三振記録を更新

和田毅は、幼少期を愛知県で過ごし、地元のチーム「江南団地野球」で野球を始めました。小学生時代に、島根県に転居しても好きな野球を続けます。そして高校には、父の実家に程近く、島根県で甲子園最多出場を誇る浜田高校へ進学しました。2年生からエースに就任すると、1997年夏、15年ぶりの甲子園出場を果たします。先発としていいピッチングを見せるも、最終回に押し出し四球で逆転サヨナラという悔しい初戦敗戦を経験しました。3年夏もチャンスを掴み、甲子園でもベスト8という好成績を残しましたが、この大会は怪物・松坂大輔率いる横浜高校が話題を独占し優勝を飾っていました。

卒業後、早稲田大学へ進学すると球速が驚くほどアップし、驚異の奪三振記録を達成します。2年から先発として多くのマウンドに上がり、江川卓の持っていた東京六大学の奪三振記録を25年ぶりに塗り替えました。4年当時には、52年ぶりの春秋連覇にも貢献し、早稲田のドクターKとも呼ばれます。大学通算で62試合、27勝13敗、防御率1.35、476奪三振という好成績を残し、プロスカウト注目の的となっていました。

福岡ダイエーホークス入団後、1年目から5年連続二桁勝利

和田毅は2002年ドラフト会議において、自由獲得枠で福岡ダイエーホークスに入団しました。そしてルーキーイヤーから即戦力の名に恥じない投球を披露していきます。オール先発で28試合に登板し、2完封含む14勝5敗とチームの大きな戦力となりました。同年のダイエー打線は、100打点クリア4人、打率3割打者6人という超強力でした。序盤から首位を譲らず、見事優勝を成し遂げ、日本シリーズも制します。和田も第3戦、第7戦で先発登板し、第7戦では史上初めて新人で完投勝利し、胴上げ投手という栄冠も手にしました。同年オフには満場一致で新人王に選出されるという、プロ人生最高のスタートを切りました。

2004年、怪我に悩まされるなど、10勝に終わり2年目のジンクスも経験します。それでも8月にはアテネ五輪日本代表にも選出され、先発2試合で2勝、防御率1.50と日本の銅メダル獲得に貢献しました。その後も安定したピッチングを続け、入団以降二桁勝利を5年連続で達成します。同級生でプロでは一年先輩に当る杉内俊哉とともにホークス投手陣を支えました。

2011年の日本一を置き土産に、メジャーリーグへ挑戦を表明

2008年、前半戦で8勝を挙げて6年連続二桁勝利は間違いないと思われました。しかし同年はチームが最下位に喫するなどバランスが悪く、その後勝ち星を積み上げられませんでした。翌年、2度目の開幕投手を務めて完封発進しましたが、5月末に肘を故障して長期の戦線離脱を強いられます。終盤復活こそしましたが、プロワーストの5勝に終わりました。

しかし2010年、見事に完全復活を遂げます。杉内と二人で先発の大黒柱として活躍し、キャリアハイの17勝をあげて初の最多勝に輝きました。杉内も16勝、最高勝率と二人ともタイトルホルダーとなり、7年ぶりの優勝に貢献します。同年の和田は、ともに初となるMVP、ベストナインも受賞しました。さらに翌2011年も好調を維持します。自身3度目の開幕投手を務めると、どんどん勝ち星を積み重ねてプロ通算100勝を達成しました。前年に続いてフルシーズンで活躍し16勝をあげ2年連続でリーグ優勝、さらには8年ぶりの日本一も達成しました。9年で107勝をマークし、同年頂点にも達したこともあって、和田は次なる挑戦の場にメジャーリーグを選択することになりました。

夢のメジャー挑戦は、怪我にまみれた4年間でわずか5勝に終わる

2011年、和田毅はボルチモア・オリオールズと2年契約を交わして海を渡りました。和田の投球スタイルは、ストレート中心ですが球速150キロには到底及びません。それでも球持ちが長いため初速と球速の差が小さく、高い奪三振率が大きな特徴でした。この投球が最高峰のメジャーリーグで通用するのか、ファンは期待しました。しかし、シーズン前のキャンプで左肘を負傷し開幕メンバーから外れます。さらに左肘靭帯の部分断裂も判明し、メジャーで1球も投げることなく、トミー・ジョン手術を受けるという選択をせざるを得ませんでした。1年近くのリハビリを強いられ、2年目に臨みましたが、マイナーでも成績を残せませんでした。結局一度もメジャー経験なく契約が終了し自由契約となりました。

その後、2013年に和田はシカゴ・カブスとマイナー契約を締結します。そして7月にようやく先発でメジャーデビューを果たしました。後半戦はローテーション投手に定着し、13試合で4勝をあげて1年の契約延長を勝ち取りました。しかし、翌シーズンにまた怪我をし2度目の故障者リスト入りし、同年の勝利はわずか1勝でした。結局4年間で5勝5敗と全く不本意な成績に終わりました、満足なプレーできたのは3年目後半だけでした。

ホークスに復帰すると、最多勝に最高勝率の2冠で貫禄を示す

メジャー挑戦は怪我により結果的に失敗となり、和田毅は日本球界復帰を決断します。2015年末に、古巣である福岡ソフトバンクホークスと契約を交わしました。松坂世代と呼ばれた同期たちも皆ベテランとなり、その筆頭である松坂大輔も前年から同じホークスを選択していました。しかし、35歳となった和田は、同世代で最も輝きを放つ選手となりました。ホークスのローテーション投手として活躍し、15勝5敗で自身2度目の最多勝、勝率.750で最高勝率と投手2冠に輝きます。同年の松坂は登板わずか1試合、ともにしのぎを削った杉内俊哉は手術後のリハビリのため、プロ15年目で初の一軍登板無しに終わりました。

まだまだ力が衰えていないことを証明した和田は、2017年の開幕投手にも抜擢されるなど2戦2勝と好スタートを切りました。しかし、再び左肘痛で戦線離脱すると、5月には手術を受けました。復帰には約3ヶ月近くかかる見込みで、同シーズン中の復帰を目指しています。


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