稲葉篤紀について

名前稲葉篤紀(イナバアツノリ)
生年月日1972年8月3日
日本
出身愛知県西春日井郡師勝町
プロフィール小学1年から野球を始める。中京高校では1年秋からレギュラーを務め、3年夏は愛知県大会決勝で敗退。高校通算50本塁打を放つ。法政大では1年春から出場。4年春ベストナイン。

1994年ドラフト3位でヤクルト入団。イースタンリーグで43試合に出場、3割6分3厘の打率トップ、9本塁打、37打点。1995年6月対広島戦で初打席初本塁打を放ち、猛打賞も記録。1996年打率.310、1997年21本塁打をマークする。2001年5月対巨人戦でサヨナラ満塁本塁打を放つ。同年ベストナイン。ヤクルト10年間で3度の日本一に貢献し、2004年オフFA宣言してメジャー挑戦を表明。しかし獲得球団が現れず、北海道日本ハムファイターズへ移籍。

移籍2年目の2006年には、打率.307、26本塁打で札幌意移転後初の日本一に貢献。2007年には、首位打者、最多安打でチーム初の連覇に貢献。2012年、通算2000本安打を達成。日本ハム10年で4度のリーグ優勝に貢献し、2014年限りで現役引退。

通算成績は2,213試合、7,578打数2,167安打、261本塁打、1,050打点、74盗塁、打率.286。首位打者1回、最多安打1回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞5回。中京高校卒、法政大学卒、左投左打、183cm、79kg

イチロー率いる愛工大名電に敗れ、甲子園出場はならず

稲葉篤紀は愛知県に生まれ、父が野球の指導者だったことから、自然と草野球を始めました。そして父のおかげで、本来、3年生からしか入れない野球チームに小学1年生から入ります。中学時代も野球を続けると、よく通っていたバッティングセンターでは、イチローとのニアミスも経験しました。セレクションに合格して中京高校に進学すると、甲子園を目指しましたが、そこに立ちふさがったのはイチローでした。3年最後の夏に、何とか県大会の決勝までたどり着きましたが、2年生イチロー率いる愛工大名電に4-5で敗れ、夢は泡と消えました。

高卒時点でプロから声がかかる選手ではなく、法政大学に進学します。怪我を乗り越えて、レギュラーに定着したのは3年春からでした。当時は、日米大学野球日本代表にも選出されるほど打者として頭角を現しており、4年次にはチームの優勝に貢献しました。

ヤクルト入団後は、即一軍に定着して2度の日本一にも貢献

1994年のドラフト会議で、稲葉篤紀はヤクルトスワローズから3位指名を受けて入団します。この指名には、野村克也監督の鶴の一声がきっかけとなっていました。息子・克則の大学野球試合観戦のため球場に足を運ぶと、その対戦相手として本塁打を放ったのが稲葉でした。内角球のさばき方に天性のものを感じた野村は、3位指名直前にスカウトの反対を押し切って指名を敢行したのでした。

入団後、外野手へ転向すると、ルーキーイヤーから非凡なものを見せていきます。初打席で初本塁打デビューを飾ると、同年は67試合に出場して、打率.307、8本塁打、40打点で、チームの日本一に貢献します。2年目からはレギュラーに定着して125試合出場、打率.310、11本塁打、53打点、さらに3年目は130試合出場で、打率.267、21本塁打、65打点で再び日本一に貢献しました。

ヤクルト在籍10年間をほぼレギュラーで過ごしメジャー挑戦

確固たる地位を築いたかに見えた稲葉篤紀でしたが、4年目から故障もあって不調に陥ります。1998年からの3年間は、規定打席はおろか100試合出場も達成できません。その間、チーム順位もすべてBクラス4位に終わり黄金時代から低迷時代に入っていました。しかし、稲葉の復活とともにチームも一気に上昇気流に乗ります。2001年、138試合に出場して、打率.311(リーグ7位)、25本塁打(リーグ9位)、90打点(リーグ6位)と打撃3部門すべてでキャリアハイを記録しました。同年のヤクルト野手レギュラーは、8人全員が規定打席に到達するという充実ぶりで、チームは4年ぶりにリーグ優勝、日本一を奪還しました。

2002年からは1番や3番で起用されることも多くなり、外野手のレギュラーとしてチームの3年連続Aクラス入りに貢献しました。そしてヤクルトで区切りの10年目を過ごすと、2004年オフにFA宣言してメジャー挑戦を表明しました。

日本ハム唯一のFA入団選手として、札幌移転後初優勝に貢献

しかし稲葉篤紀を獲得したい球団が現れず、メジャーリーグ移籍は実現しませんでした。さらに日本球界においても獲得に手を上げる球団がなく、ヤクルト残留が規定路線と思われました。そして残留のための回答期限だった日、まさかの北海道日本ハムファイターズからオファーの電話を受けます。日本ハムは生え抜き若手選手の育成をチーム戦略の根幹にしており、当時FAで獲得した選手は一人もいませんでした。稲葉の入団が、2016年末現在でも唯一の例外となっています。

ある意味、失意の中初めてのパ・リーグ挑戦となりましたが、稲葉にとっては大きな転機となりました。前年、チームに加入していた新庄剛志に大きく影響され、楽しむ野球とファンサービスの重要性を再認識します。そして移籍初年度は、当初こそリーグの違いに苦しみましたが、後半持ち直して主軸の一人として活躍しました。そして移籍2年目の2006年、開幕早々に新庄が同年限りでの現役引退を表明すると、チームはまさに一丸となります。稲葉は主に5番打者として活躍し、打率.307、26本塁打、75打点と大活躍しました。さらに不動の3番打者・小笠原道大が本塁打と打点で2冠王を獲得し、ペナントレース最終戦でシーズン1位を確定させました。さらにクライマックスシリーズ、日本シリーズと破竹の勢いで勝ち進み、札幌移転後初となる日本一を達成します。同年の稲葉は、ベストナインと、ゴールデングラブ賞もダブル受賞し、一気に日本ハムの顔となりました。

リーダーとしてチームを支え、日本ハムを常勝軍団に変貌させる

前年見事な日本一を達成しましたが、2007年はチームの主力二人が不在となりました。新庄剛志は宣言どおり引退し、小笠原道大はFAで巨人に移籍しました。34歳と年齢的には最年長だった稲葉篤紀は、チームリーダーとしての自覚を持つようになります。そして小笠原が務めていた3番に定着すると、まさにバットでチームを牽引しました。当初はチームで唯一好調を維持すると、稲葉のバットに追随するようにチームは連勝街道をひた走ります。結局交流戦に初優勝し、大逆転で2年連続リーグ優勝を飾りました。自身も、打率.334で首位打者、176安打で最多安打と初タイトルを2冠で飾り、リーダーとしての役割を全うしました。

その後も、チームリーダーとしての活躍は続きます。2009年は第2回WBC日本代表に選出されて、つなぎの4番を務めるなど日本の連覇に貢献しました。同年シーズンも3年連続打率3割を達成するなど、安定した成績で2年ぶりのリーグ優勝を実現します。さらに40歳で迎えた2012年には、史上39人目となる通算2,000本安打を、さらには250本塁打、400二塁打、通算1,000打点など節目の大記録を次々と達成しました。そしてメモリアルイヤーに花を添えるリーグ優勝も成し遂げ、完全に日本ハムを常勝軍団にのし上げました。

稲葉は日本ハム唯一のFA移籍で加入した選手ですが、ファンにも完全に受け入れられました。特に札幌ドームにおいて、チャンスの場面で稲葉が打席に入ると、球場が揺れる「稲葉ジャンプ」が巻き起こります。テレビ中継のカメラすらそのジャンプで大きく揺れてしまうほどの一体感があります。本来、札幌ドームでは立ち上がっての応援は禁止されていますが、この時だけは特例が認められていました。

ヤクルト10年、日本ハム10年で7度の優勝を経験して現役引退

2013年には、40代ながら第3回WBC日本代表に選出されます。チーム最多タイの7試合に出場しましたが1打点に終わり、チームも3連覇を逃しました。同年のシーズンでも極度の打撃不振に陥り、自ら志願して二軍降格となるなど規定打席到達が実現できませんでした。翌2014年は、開幕早々に手術のため戦線離脱し、7月に復帰するもかつてのような輝きを放てなくなります。そして同年9月に現役引退を発表します。シーズン3位を何とか実現し、クライマックスシリーズではここ一番の代打として勝負強さを見せましたが、日本シリーズ進出はできず、そのプレーオフが最後の打席となりました。

現役生活20年で、実に7度のリーグ優勝を経験した稲葉は、引退後、日本代表チームの打撃コーチに抜擢されました。近い将来、指導者としてプロ野球界への復帰も期待されています。

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