益子直美について

名前益子直美(マスコナオミ)
生年月日1966年5月20日
日本
出身東京都葛飾区東金町
プロフィール東京都金町中時代からバレーボール選手としての才能を認められ、共栄学園に入学、春の高校バレーで開花。バックアタックと、ジャンピング・ドライブサーブを武器に、八王子実践の106連勝を阻んだ。高校3年で全日本入り。高卒後の1985年イトーヨーカドーに入社、エースアタッカーとして活躍。同年新人賞、1989年ベスト6に選ばれる。1990年日本リーグ初優勝。同年北京アジア大会代表。1992年現役を引退、アシスタント・コーチに。1993年3月イトーヨーカドーを退社しスポーツ・リポーター、タレントに転身。「速報Jリーグ」「スポーツ&ニュース」「燃えろ!アトランタ王」「トップランナー」などに出演。1994年8月「VICTORY」で歌手デビュー。1996年「ワールドスーパーチャレンジバレー」の総合司会を務める。著書に「いつもハートはノーメーク」がある。共栄学園高卒、175cm、58kg。

中学からバレーボールを始めるも、自信を持てず一時は辞める決断

益子直美は、東京の下町、葛飾に生まれます。幼稚園時代から、明らかに周りよりも身長が高く、自身にとっては嫌なあだ名をつけられたことから、背が高いことを欠点と思いこんですらいました。目立たないように猫背のように過ごしていましたが、中学時代に転機が訪れます。アニメ「アタックNo.1」に強い憧れを持ち、金町中に入学と同時にバレーボールを始めると高身長は武器となりました。抜群の運動神経は異常なまでのジャンプ力を生み、バレーをやりつつ、陸上部の大会にも駆り出されます。すると垂直飛び65センチの能力を生かし、挟み飛び一本で葛飾区の走り高跳びの大会で入賞を実現していました。

もちろんバレーの腕前も上達し続け、強豪校ではありませんでしたが、2年時に葛飾区で優勝を収め、主将を務めた3年生にあがると自身が思いもしていなかった事態が起こります。東京都選抜に選出されると、あれよあれよという間に関東選抜、さらには全日本の強化合宿にまで選出されて、海外遠征に行く立場となりました。関東近郊の強豪校からも多くのスカウトをされるようになるも、益子自身は、レベルの差についていけないと逆に引きこもり、中学時代でバレーをやめることを決断しました。

下町のマコちゃんとして、春高バレーではアイドル的存在に

しかし益子直美は、暖かい指導者の計らいでバレーへの情熱を取り戻します。部活を引退した中学3年夏、バレーボールワールドカップの観戦に出かけると、コートすぐそばでゲームを見る機会を与えられ大ファンだった中国選手との握手に感動を覚えます。こうしてバレーへの気持ちが戻り、バレーで生計を立てることを目標としました。まるで偶然の連続のように思えますが、実は観戦に誘うことも、間近で観戦できたこともすべて指導者たちがあらかじめ根回しをしていた結果でした。

益子は、バレーの名門・共栄学園に進学して、さらに才能を開花させます。そして2年生で迎えた春高バレーにおいて一気にその名を全国に知らしめます。エースとして活躍し、準決勝で当事無類の強さを誇っていた八王子実践と対戦しました。前年も優勝を飾っており、1年生エース大林素子も加わったチームは破竹の105連勝中でした。第1セットを奪われた共栄学園は、逆転を目指して益子にボールを集めます。ジャンピング・ドライブサーブや、当時としては珍しいバックアタックを連発して、手に汗握るシーシーゲームを展開しました。2時間を越える死闘となりましたが、最後も益子のバックアタックが決まり逆転で勝利。実にチームスパイク132本のちょうど半数にあたる66本を決めて、八王子実践の連勝記録を105でストップさせました。決勝では四天王寺(大阪)に敗れはしたものの、好ゲームとして後世に語り継がれています。

一躍スターとなった益子は、「下町のマコちゃん」と呼ばれアイドル的存在となり、高校3年秋には、全日本代表入りを果たします。同じく全日本入りしていた大林とともに将来のバレー界を支える存在として大きくクローズアップされました。

イトーヨーカドーに進み、6年目に打倒日立を達成する優勝

高校3年生の益子直美は、バレーボール常勝チームの日立製作所からオファーを受けていました。自身も憧れを抱いていたチームであり、もちろんオリンピック出場も視野に入れることができました。しかし、決して高身長ではない益子は、激しいレギュラー争いを続ける自信がなく日立行きを断ります。そして、入社すれば即レギュラーが約束されたイトーヨーカドーを選択し、打倒日立を目標としました。

1年後には大林素子が日立入りし、さらに磐石となりますが、無名のチームが強者を倒すためにチーム力磨きにまい進します。一人一人が複数の役割をこなし、練習や試合に対する意識も変わると、万年5位近くだったチームが変貌を遂げました。日立とも対等に渡り合えるようになり、迎えた1990年念願の日本リーグ初優勝を飾りました。翌年にはチームの主将を務め、全日本でも大林と人気を二分する選手でしたが、1992年、26歳の若さで現役を引退しました。

スポーツキャスターとして、第2の人生を歩み始める

選手時代の益子直美はオリンピックを経験することができませんでしたが、引退後スポーツキャスターという立場で関わりました。そして、決して順風満帆ではなかった選手時代だったことから、益子は敗者の気持ちを理解していました。こうした配慮あるインタビューなどを重ねるうちに、イトーヨーカドーを退社してタレントの道を模索し始めます。1997年からは、NHKの「トップランナー」司会を長年務めるなど精力的に活動し、スポーツレポーター、キャスターなどの仕事も板についていました。

結婚後は一時現場復帰するも、心臓手術など激動の人生を送る

2006年、40歳の年で自転車ロードレーサー・山本雅道と結婚しましたが、波乱の人生の幕開けともなりました。42歳のときに、子宮にポリープが見つかり、切除手術を余儀なくされます。そして、どうしても子供を望み、不妊治療も開始することになります。しかし、相当な費用もかかるも成果は現れず、45歳の誕生日で不妊治療をついに断念しました。

2015年、夫が現役復帰したのを機に、自身も23年ぶりに現場復帰を決断しました。バレーの指導者としては、イトーヨーカドー時代晩年にアシスタント・コーチを務めて以来のことでしたが、淑徳大学のバレー部監督を引き受けました。バレーはもちろんのこと人間教育もあわせて加えることで、チームは一体化し就任当初は6部リーグでしたが、2年で4部リーグまで昇格させました。

また2017年、50歳を迎えると益子にまさかの病魔が襲い掛かります。不整脈の一種である心房細動を煩い、心筋梗塞や脳梗塞のリスクを指摘され、2時間半に及ぶ心臓カテーテル手術を受けました。手術は無事に成功し、現在は夫が経営するサイクルショップをともに支えています。


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