森本稀哲について
名前 | 森本稀哲(モリモトヒチョリ) |
---|---|
生年月日 | 1981年1月31日 |
国 | 日本 |
出身 | 東京都荒川区西日暮里 |
プロフィール | 1998年帝京高3年の時夏の甲子園に出場。高校通算34本塁打。
1999年ドラフト4位で日本ハムに入団。当初は厚いレギュラーの壁にさえぎられるも、2005年に初めて100試合出場をクリアすると2006年から不動の外野手レギュラーに定着。同年は、1番左翼手として初のゴールデングラブ賞を受賞するなどチームの日本一に貢献。2007年は、全試合フルイニング出場して、2年連続ゴールデングラブ賞に初のベストナインを受賞。2008年から打撃不振に陥り、2010年オフ、横浜ベイスターズへFA移籍。 しかし、3年間、主だった成績を残せず2013年オフ戦力外通告。西武ライオンズの入団テストを経て入団するも、レギュラーの座を奪えず、2015年限りで現役引退。 通算成績は1,272試合、3,497打数904安打、33本塁打、267打点、106盗塁、打率.259。ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞3回。帝京高校卒、右投右打、185cm、76kg |
幼少期のコンプレックスを野球の実力で覆し、甲子園にも出場
森本稀哲は、在日韓国人の父親と日本人の母親の間に生まれました。幼少期に、汎発性円形脱毛症を患い、頭髪をはじめ全身の体毛を失ってしまいます。小学生から荒川区の野球チームに入っていましたが、帽子を取ると周囲からからわかれる日々が続きました。しかし、運動神経抜群の森本は、野球の実力でそれらを黙らせます。中学まではサッカーもやっているほどでしたが、帝京高校に入ると野球一本に絞りさらに才能を開花させました。
野球の名門校だけに、そうそうたるメンバーが集まりましたが、野球の実力は誰にも劣らず3年生では主将を任されます。東京都大会の開会式では選手宣誓を務め、見事に甲子園出場を決めました。同大会では横浜高校が春夏連続優勝を決め、松坂大輔が話題を独占しましたが、森本も3回戦の浜田高校戦で和田毅から本塁打を放ち、しっかりと足跡を残しました。
日本ハム入団後は、準レギュラーから抜け出せない時期が続く
高校通算34本塁打の森本稀哲は、1998年ドラフト会議で日本ハムファイターズから4位指名を受けて入団します。当初は内野手でしたが、外野手へ転向してプロへの挑戦をスタートさせました。3年目の2001年から、一軍でも多く起用されるようになり、11盗塁と足で頭角を現します。しかし、代打や、代走、守備固めなどの役割から抜け出せず、レギュラー定着できない日々が続きました。いつしか明るい性格は表に出なくなり、コーチのアドバイスにすら嫌悪感を抱くようになっていきます。
2003年、新監督トレイ・ヒルマンに初の開幕スタメンに抜擢されて好スタートを切りました。しかし前年にトレード移籍してきた坪井智哉にスタメンの座を奪われると、例年通りの60試合程度の出場に終わります。自身が準レギュラーのポジションから抜け出せない間に、チームは外野手補強を繰り返していきます。2003年オフには新庄剛志が、翌年オフには稲葉篤紀が加入し、先輩たちを必要以上に敵視し、コミュニケーションをとらなくなるという状況に陥っていました。
新庄剛志、稲葉篤紀と鉄壁な外野陣を形成しチームの日本一に貢献
しかし新庄剛志のファンサービス、稲葉篤紀の試合への取り組み方など、プロとしての意識の高さに思い知らされ、森本稀哲は考え方を変えます。アドバイスにも耳を傾けると、2005年に初めて100試合以上に出場し、2006年は飛躍の年となりました。坪井智哉の故障離脱で、左翼手のポジションで出場し続け初の規定打席到達をクリアし、レギュラーを獲得します。打撃成績も向上し、不動の1番打者として打率.285、9本塁打、42打点、13盗塁とキャリアハイの成績を残しリーグ最多得点も記録しました。さらに森本、新庄、稲葉の外野手3人が揃ってゴールデングラブ賞を受賞し一気に日本シリーズをも制しました。
2007年からは前年引退した新庄から背番号1を譲り受けます。すると同年は、自身初の全イニングフル出場、2年連続最多得点、初の打率3割をクリアしリーグ6位の成績を残しました。外野守備は相変わらず鉄壁で、両リーグ1位の15個の捕殺数を記録し、最多得票で2年連続のゴールデングラブ賞を受賞しました。チームも2年連続でリーグ優勝を実現し、初のベストナインも手にした森本はリーグを代表する外野手へと成長していました。新庄から受け継いだファンサービスも健在で、様々なパフォーマンスで観客を喜ばせました。
3年連続死球骨折などで調子を崩し、2011年からはFAで横浜移籍
不動のレギュラーに定着した森本稀哲でしたが、2008年から3年連続で死球骨折を負い、試練を迎えます。途中離脱を繰り返しながらも、100試合以上の出場を続けましたが、打撃成績は大きく数字を落としました。糸井嘉男の台頭もあって、苦しい立場にあった森本は、2010年オフ、FA権を行使して、横浜ベイスターズへの移籍を決意しました。
当時の横浜は前年まで3年連続最下位とまさに暗黒時代にあえいでいました。ファン離れも激しかったこともあって、明るいキャラクターの森本には人気回復というプレー以外の期待もありました。いきなり、入団会見でラーメンマンのコスプレで登場すると、開幕戦にも6番・中堅手で出場します。しかし故障や打撃不振が続き、わずか48試合出場に終わりました。翌年も開幕スタメンにこそ名を連ねましたが、レギュラー争いに敗れると、移籍3年目の2013年はほぼ二軍暮らしを強いられました。
最後の球団西武では引退試合で奇跡を経験し、現役引退
2013年オフ、横浜から戦力外通告を受けるも現役続行にこだわった森本稀哲は、西武ライオンズにテスト生として入団します。しかし、キャプテン栗山巧や秋山翔吾ら外野手レギュラーの壁は厚く、一塁手にチャレンジしました。1年目は99試合に出場して、打率.252の成績を残しましたが、2015年は12試合の出場に終わります。34歳だった森本は、同年限りの現役引退を決意しました。
日本ハム時代に新庄剛志、稲葉篤紀から教わったプロとしての姿勢は、西武ナインに大きな影響を与えていました。そして同年9月、在籍2年の外様だった森本に、異例の引退試合が企画されます。8回途中から同試合に出場したため、森本が現役最後の打席に立つためには、その裏の攻撃で実に4人が出塁する必要がありました。しかしベンチが一丸となり、外国人メヒアまでもが普段見せない全力疾走で、それを実現します。打席に入る前から涙があふれた最終打席は三塁ゴロに終わりましたが、森本がいかに慕われていたかがわかります。
引退セレモニーには、新庄からのメッセージ、そして稲葉も駆けつけるサプライズもありました。現役引退後は、野球解説者としての活動をしながら、学生野球資格回復研修を受講し学生野球選手への指導ができる環境を整えました。