星野仙一について

名前星野仙一(ホシノセンイチ)
生年月日1947年1月22日
日本
出身岡山県倉敷市
プロフィール倉敷商高、明大を経て、1969年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。1974年には先発、抑えの両方で活躍し、15勝10セーブの成績で優勝に貢献、同年の沢村賞と最多セーブ賞を受賞した。オールスター出場は6回、1982年に現役を引退。対巨人戦35勝をあげ、“燃える男”の異名をとった。

1983年NHKの野球解説者となって人気を集め、1986年シーズン終了後中日監督に就任。1988年リーグ優勝を果たした。1991年辞任。1993年NHKに復帰し、専属スポーツキャスター。

1996年中日監督に復帰。1999年リーグ優勝を果たし、セ・リーグ最優秀監督賞を受賞。2000年9月通算700勝を達成。2001年シーズン終了後、退任。2002年から阪神監督に就任。前年まで4年連続最下位と低迷していたが、初年度に最下位を脱出する4位。さらに同年オフ、相当な血の入れ替えを行い、チームを変貌させると、2003年開幕から独走して18年ぶりのリーグ優勝を飾る。しかし日本シリーズ後に体調を理由に勇退。

2007年から北京五輪日本代表監督に就任。金メダルのみを目標に挑むも、4位とメダルなしの惨敗に終わる。

2011年からは楽天監督に就任。2013年、エース田中将大の24勝無敗の活躍もあって、球団創設初優勝。日本シリーズも、選手、監督時代通じて初の日本一を達成。2014年、一転して最下位に沈み、腰痛もあって同年勇退。

通算成績は500試合、146勝121敗34S、防御率3.60、2,128回2/3、1,225奪三振。最多セーブ1回、沢村賞1回、監督時代の成績は、2,277試合1,181勝1,043敗53分。正力松太郎賞1回。明治大学卒、右投右打、180cm、80kg。

倉敷商業、明治大学でエースとなるもともに優勝経験なし

星野仙一は、岡山県倉敷市に生まれましたが、その1カ月前に父を亡くしていました。生前父が働いていた工場で育ち、実業団野球部の選手たちに可愛がられたこともあって、幼くして野球を始めます。倉敷第四福田小、水島中学を経て倉敷商業高校に進学すると、2年からチームのエースとなりました。徐々に力をつけると、3年夏には岡山県大会を制し、東中国大会も決勝に導きます。しかし米子南に敗れ、甲子園出場は夢と消えました。

高校卒業後は、明治大学へ進学します。そして監督に君臨していた島岡吉郎の人間性に魅かれ、その後の野球人生にも大きく影響を受けることになります。もちろん投手としても1年生から試合に出場し、2年ではノーヒット・ノーランも達成しました。しかし、星野が在籍した東京六大学リーグでは、田淵幸一・山本浩司ら率いる法政大学、谷沢健一率いる早稲田大学などがしのぎを削っており、一度も優勝することはできませんでした。

中日のエースとして活躍し、1974年は沢村賞獲得して巨人V10を阻止

大学通算23勝の星野仙一は、田淵幸一、山本浩司らとともに1968年ドラフト会議の目玉となります。自身は巨人入りを熱望しており、巨人から指名の言質をもらっていましたが、巨人は1位で高校生投手を指名しました。結局、中日ドラゴンズから1位指名を受け入団しますが、巨人に対する強烈なライバル意識はここから始まりました。

ルーキーイヤーに8勝をあげると、2年目には10勝と早くも二桁勝利をマークします。そして3年目には中日のエースナンバー20を身につけます。1971年から右肘痛に苦しみ、2年間ともに9勝に終わりましたが、1973年には16勝をマークして復活します。さらに1974年には先発にリリーフにフル回転し、15勝10セーブで巨人V10を阻止するリーグ優勝を成し遂げました。同年から表彰が始まったセーブ王の初タイトルに、沢村賞も獲得とまさに飛躍の年となりました。その後も、中日エースとして活躍し、1982年に引退するまで二桁勝利8度を記録しました。

巨人キラーとして一時代を築き、対巨人戦最高勝率をキープ

星野仙一は現役生活14年で、146勝121敗34セーブという記録を残しました。しかし特筆すべきは、巨人との対戦成績が35勝31敗であるという事実です。勝利数こそ6位ですがトップ10内で勝ち越しているのは、星野、平松政次、川口和久の3人だけであり、勝率.530は堂々のトップです(対巨人30勝以上の投手が対象/2016年末までの数字)。巨人V9時代に投げていたにも関わらず、異常ともいえる数字でした。巨人がドラフトで星野を指名していれば、V10以上に記録を伸ばしていたかもしれません。

中日監督を2期11年間務め、2度のリーグ優勝を飾る

1982年限りで現役を退きましたが、1986年オフ古巣中日の監督として現場復帰します。就任と同時に、当時パ・リーグで2年連続3冠王を獲得していた落合博満を1対4のトレードで獲得するという大仕事を成し遂げました。そして高卒ルーキーも大胆に起用する采配も随所に見られました。高卒ルーキー投手・近藤真一を先発で巨人戦にぶつけると、いきなりノーヒット・ノーランを達成。

さらにルーキー立浪和義を遊撃手で起用するために、前年のレギュラーだった宇野勝を二塁手にコンバートもさせました。そして就任2年目には見事リーグ優勝を飾りました。1991年で一度監督を退きましたが、1996年から第2次政権をスタートさせます。宣銅烈、サムソン・リーなど韓国球界からの助っ人も獲得し、1999年には2度目のリーグ優勝を実現します。しかし選手時代から通じて、3度の日本シリーズでは一度も勝利を手繰り寄せられませんでした。

阪神監督時代、大胆な血の入れ替えで18年ぶりのリーグ優勝を実現

中日監督を退き、充電期間をおかずして、今度は2002年から阪神タイガースの監督に就任します。当時の阪神は超低迷期にあり、野村克也氏が前年まで監督を務めましたが、3年連続最下位に沈んでいました。そして野村氏が阪神には熱血型の監督がフィットするとして星野仙一を推薦したこともあって実現しました。

現役時代から闘将と呼ばれた星野は、グイグイとチームをリードし、1年目に最下位を脱出する4位となります。そして就任2年目の2003年を迎えるにあたって、弱小チームを劇的に変えるため大胆な血の入れ替えを敢行します。実に24人の選手を放出し、代わりに金本知憲、伊良部秀輝、下柳剛らの新戦力を獲得しました。彼らがしっかりと活躍し、野村監督時代から起用され続けた井川慶投手がエースとして20勝をマークするなど、リーグを独走します。7月にマジックを点灯させるなど、まさに圧倒的な強さで18年ぶりのリーグ優勝を飾り、暗黒時代をついに抜け出しました。しかし星野監督は、持病の高血圧病の状態がひどくなり、日本シリーズ後に勇退となりました。

北京五輪日本代表監督を務めるも、まさかのメダルなしに終わる

その後の星野仙一は、阪神のオーナー付シニアディレクター(SD)に就任し、後方支援に努めます。しかし北京五輪を翌年に控えた2007年、日本代表監督に就任しました。金メダルのみを目標と掲げ、2008年シーズン途中にオールプロ選手で挑みました。アジア・オセアニア予選を全勝で制し、8チームによる本選予選では4勝3敗とギリギリの4位で何とか通過します。そして一発勝負の決勝トーナメントでは、韓国戦で終盤に逆転されて金メダルの望みがなくなります。アメリカとの3位決定戦も逆転で破れ、まさかのメダルなしと惨敗して帰国しました。

楽天監督として3球団目の優勝、さらには悲願の日本一を達成

2010年オフ、星野仙一の楽天監督就任が発表されます。自身初のパ・リーグ監督にあたって、元メジャーリーガーの岩村明憲や松井稼頭央を獲得し、2011年シーズンに挑みました。しかし同年3月、本拠地仙台が未曾有の危機に晒される東北大震災が勃発します。野球を続けるような状況ではありませんでしたが、東北復興のため立ち上がりました。

1年目は、終盤に脱落してクライマックスシリーズ進出を逃しましたが最下位を脱出して5位に終わります。2年目は、エース岩隈久志をFA移籍で欠きながらも勝率5割の4位と、徐々にチーム力をあげました。そして、監督となって3年目の2013年は、エース田中将大がプロ野球史に残る大活躍を見せます。開幕から一度も負けることなく勝ち続け、史上初の24勝0敗でシーズンを乗り切りました。新外国人アンドリュー・ジョーンズ、ケーシー・マギーそして星野チルドレンとも呼ばれた岡島豪郎、銀次らも活躍して、ついに球団初のリーグ優勝を成し遂げました。クライマックスシリーズも勝ち抜き、選手時代からの宿敵巨人との日本シリーズを迎えます。新人投手・則本昂大の働きに、エース田中の奇跡の連投もあって、4勝3敗で巨人を下し、念願の日本一を達成しました。星野にとっては、選手時代、中日、阪神監督時代一度も実現できなかった初の日本一、そして異なる3球団でのリーグ優勝も三原脩、西本幸雄に続き史上3人目の快挙でした。

2014年は、田中の移籍もあって大きく落ち込みました。星野監督も腰椎椎間板ヘルニアを患い途中休養を強いられます。結局、同年最下位に終わり、同年限りで監督を退きました。その後は楽天球団取締役副会長を務め、2017年には野球殿堂にも選出されました。

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