野口みずきについて

名前野口みずき(ノグチミズキ)
生年月日1978年7月3日
日本
出身三重県伊勢市
プロフィール厚生中1年から陸上を始める。高校2、3年で高校総体3,000メートルに出場。

1997年ワコールに入社。1999年グローバリーへ移籍。同年一般参加した札幌国際ハーフマラソンで1時間10分1秒の自己ベストを出し、日本人トップの2位でゴール。同年世界ハーフマラソン選手権日本代表として参加し2位。2001年東アジア競技大会ハーフマラソンで金メダルを獲得。同年7月札幌国際ハーフマラソンで2位。8月世界選手権1万メートルは13位。

2002年名古屋国際女子マラソンで初マラソン初優勝を飾ると、2003年世界選手権で日本人トップの2位に入り、アテネ五輪代表に内定。そして2004年アテネ五輪では、猛暑の中、優勝を飾り、シドニー大会の高橋尚子に続き2大会連続の日本人金メダルをもたらしました。2005年、ベルリンマラソンでアジア記録、日本記録を更新して優勝。

2007年東京国際女子マラソンを大会新記録で優勝し、北京五輪代表に内定。しかし左足太股肉離れが発覚しレース5日前に出場を辞退。

その後は怪我との戦いが続くも、ロンドン、リオを目指して現役を続行。2013年には10年ぶりに世界陸上選出するが、同レースでは途中棄権。2016年1月現役引退。同年7月一般男性と結婚。宇治山田商卒、150cm、40kg。

4ヶ月間という無職期間を乗り越えて、プロ意識が芽生える

野口みずきは、三重県で生まれると、友人に誘われて中学時代から陸上を始めます。当時は、全国レベルの選手ではありませんでしたが、偶然にも宇治山田高校陸上部顧問の目に留まり、スカウトされました。高校時代は、主に3,000メートルの選手としてインターハイにも2度出場し、駅伝選手としても活躍していました。野口の才能は評価され、多くの社会人からの誘いがある中、ワコールを選択します。その裏には、高校3年のとき、ワコール所属の真木和選手が初マラソンで優勝するのを見たことで、共に走りたいという感情が芽生えたからでした。

無事にワコールへ進んだ野口でしたが、会社と藤田信之監督と対立しわずか1年半で監督と共に退社という道を選択しました。結果的に無職期間が4ヶ月も続きましたが、この期間は後の野口にとって大きな財産となります。練習場すら間々ならず、栄養士も不在となったため食事メニューも自ら勉強しました。それまでの恵まれた環境を改めて再認識するとともに、プロ意識が初めて芽生えた瞬間でもありました。

ハーフの女王が、高橋尚子に刺激を受けてフルマラソンを意識

1999年2月、野口みずきはグローリーに移籍が決まります。そしてハーフマラソン中心に取り組むようになると、徐々に成績を向上させていきました。同年の犬山ハーフマラソン優勝を皮切りに、世界選手権では当時の女子マラソン世界記録保持者に次ぐ2位に入るなど躍進が続きます。2001年の全日本実業団でも優勝を飾り、当時は出場したハーフマラソンの半数以上で勝利するという「ハーフの女王」として名を馳せるようになりました。

2000年7月、札幌国際ハーフマラソンでは、同年のシドニー五輪日本代表に選出されていた高橋尚子と最初で最後の公式戦対決に挑みます。中盤まで互角に競い合いましたが、最後は振り切られて3位に終わりました。その後、高橋は大舞台で日本人女性初の金メダルに輝いたことから、自身もオリンピックでのマラソン優勝を夢に描くようになります。

初マラソン挑戦からわずか2年で、アテネ五輪金メダリストになる

野口みずきは10,000mの挑戦を経て、2002年から本格的にフルマラソンへ転向しました。そして同年3月、名古屋国際女子マラソンで初出場初優勝をいう快挙を達成します。25km過ぎの中盤で後続を引き離すという独走優勝でした。さらに2003年1月の大阪国際女子マラソンでも、当時日本歴代2位の2時間21分18秒で優勝と、オリンピックを狙える立場になります。そして代表選考レースとなった、2003年8月の世界選手権でも日本人トップの2位を確保し、アテネ五輪代表の枠を勝ち取りました。

2004年、アテネ五輪女子マラソンは、気温30度を超えるという過酷なコンディションとなりました。野口自身も熱中症になりながらも先頭集団を走ります。そして中盤25kmで早くもスパートをかけると、世界記録保持者たちが遅れ始め、野口の独走状態となりました。終盤こそ追い上げられましたが、見事1位でゴールテープを切り、高橋に続く日本人選手二人目となる金メダルを獲得しました。

2大会連続メダルのかかった北京五輪は、怪我で無念の辞退

オリンピックメダリストは燃え尽き症候群に陥ることがありますが、野口みずきはメダルが最終目標ではなく、その後もモチベーションを保ちました。アテネ五輪から1年後のベルリンマラソンでは、2時間19分12秒の大会新記録で優勝を飾ります。同記録は、アジア記録、日本記録をともに更新するもので、当時世界第3位の記録でもありました。そして、自身2度目の五輪出場ならびに連覇を目指しました。

そして代表選考レースでも、野口は圧巻の走りを披露します。2007年11月、東京国際女子マラソンに参加すると、2度のスパートで後続を引き離し大会新記録で優勝を飾りました。日本選手として史上初めて、国内三大女子マラソン(東京、大阪、名古屋)を完全制覇し、北京五輪日本代表にも選出されました。

しかし、アテネ五輪以降、野口は怪我に苦しんでおりフルマラソンの出走を控えていたほどでした。さらに本番直前に、左足太股肉離れが発覚し、北京五輪出場をレース5日前に無念の辞退を余儀なくされました。

不屈の精神でロンドン、リオと五輪を目指すも夢かなわず引退

まさかの出場辞退となった怪我は、野口みずきの選手生命を脅かしました。自身は引退する気はありませんでしたが、怪我は回復せずレースに参加できない日々が続きます。2010年に駅伝で2年半ぶりに復帰、2011年にはハーフマラソンと徐々に距離を延ばしましたが、フルマラソンを走るだけの回復には至りません。結局ロンドン五輪を目指すための最終選考レース・名古屋ウィメンズマラソンには、実に4年4ヶ月ぶりのフルマラソン出走となりました。しかし完全回復していない足では6位入賞が精一杯であり、3大会連続の五輪代表枠を掴み損ねました。

不屈の精神を持つ野口は、その後も現役続行を宣言します。2013年の世界陸上出場を目指し、1年ぶりに名古屋ウィメンズマラソンに参戦すると3位入賞し、10年ぶりの世界陸上選手権女子マラソン代表にも選出されました。そして復活を印象付けるため、世界陸上に挑みましたが、気温30度を超える猛暑もあって、スタート10km付近で早くも遅れ始めます。さらに持病の太ももの痛みに加えて熱中症も患い、無念の強制棄権となりました。野口以外の代表は、福士加代子が3位、木崎良子が4位と入賞し、ただ一人結果を残せませんでした。

大ベテランの域に達していましたが、リオ五輪へのラストチャンスを、2016年3月の名古屋ウィメンズマラソンに定め、同レースで引退をかけて臨むことを宣言します。満足にトレーニングをつめず、37歳でレースの日を迎えました。怪我は癒えることなく、練習できなかった肉体は正直であり、開始早々に先頭集団から出遅れました。その後もペースはあがることなく、2時間33分台の23位とタイム、順位共に自己ワーストで終了。しかし、暖かい沿道からの応援を自身の花道ととらえ、まさに完全燃焼でゴールしました。そして2016年4月、現役を引退しました。

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