名前亀井義行(カメイヨシユキ)
生年月日1982年7月28日
日本
出身奈良県大和郡山市
プロフィール少年野球のボーイズ・オール大和で野球を始める。斑鳩中から上宮太子高等学校に進学後、投手として活躍するが、1999年4月右足すねの疲労骨折、夏には右肩を痛めるなど、怪我に悩まされる。

2000年センバツに出場。MAX145キロの直球、切れのいいスライダーやカーブ、フォークが武器。2001年中央大学に進学。怪我のため打者に転向し、主将となった4年時には、25年ぶりの1部優勝に貢献。通算100安打も達成。2004年ドラフト4巡目指名で巨人入団。ルーキーイヤーから一軍出場を経験し、4年目の2008年には96試合出場と頭角を現す。

2009年、第2回WBC日本代表に外野手バックアップとして選出され貴重な経験を積む。同年レギュラーを掴み5番打者として25本塁打71打点を記録しゴールデングラブ賞を受賞。2010年、打撃不振に陥ると早々にレギュラーを失う。内野手にも転向し出場機会を増やすも低迷する時期が続く。2014年開幕は怪我で遅れるも、交流戦から復帰してチームを優勝に導くMVPを獲得。

通算成績は907試合、2,711打数696安打、64本塁打、277打点、46盗塁、打率.257(2016年まで)。ゴールデングラブ賞1回。上宮太子高等学校卒、中央大学商学部卒、右投左打、178センチ、82キロ。

投手として甲子園出場し、大学時代は東都のイチローとして名を馳せる

亀井義行は奈良県に生まれ、7歳年上の兄の影響で小学3年生から野球を始めます。中学時代には、所属するボーイズ・オール大和でエースとなり、日本代表として世界大会優勝を経験しました。高校進学には、大阪の強豪上宮の姉妹校である上宮太子を選び、創部まもない野球部に入部します。怪我に悩まされるも、2年秋にはエースとして大阪府秋季大会で優勝を飾り、近畿大会でもベスト4に進出して3年春に初の甲子園出場を果たします。すでにスカウトからも注目されていましたが、センバツ初戦で明徳義塾に大差で敗れ、そしてこれが最初で最後の甲子園出場となりました。

プロからの指名はなく、中央大学へ進学すると、右肘を壊し打者転向を余儀なくされます。当初は打撃成績が伸びませんでしたが、主将となった4年、個人もチームも成績を挙げました。脇腹を亀裂骨折しながらも2試合連続本塁打するなど通算100安打を達成し、チームを25年ぶりの1部優勝に導きます。そうした活躍でいつしか、東都のイチローと呼ばれ、野手としてプロスカウトに注目されるようになりました。

ドラフト4巡目指名で巨人入りし、4年目の2008年頭角を現す

2004年ドラフト会議で、巨人から4巡目指名を受けて入団します。するとファームで走攻守に非凡な才能を発揮し、終盤には早くも一軍昇格を勝ち取りました。20試合ながらプロ初安打も記録しルーキーイヤーを終えます。すると当時の原辰徳監督は、2年目の亀井義行を2006年開幕8番スタメンに抜擢しました。するとシーズン初打席で2点タイムリーを放つなど2安打4打点と大活躍します。6月にはプロ初本塁打も記録しましたが、レギュラー外野手を奪うまでには至らず、65試合出場に終わりました。

2007年は20試合のみと出場機会を減らしましたが、2008年はレギュラー獲得の足がかりを掴みます。谷佳知の不調もあって、併用で起用されるようになり、96試合出場で打率.268、5本塁打とまずまずの成績を収めました。そして同年のプレーオフでは素晴らしい活躍を見せます。中日とのクライマックスシリーズでは第2戦から3試合連続で1番スタメン出場し、14打数7安打1打点と日本シリーズ出場に大きく貢献しました。そして西武ライオンズとの日本シリーズでも3勝4敗と敗れましたが、全試合に中軸として出場しました。

WBC日本代表選出が大きな糧となり、一気にレギュラー獲得

2009年、亀井義行は大きく花開かせます。まず、シーズン前に第2回WBC日本代表に外野手のバックアップとして選出されました。守備力に期待されての選出で、3試合出場の1安打1犠打1盗塁のみとなりましたが、貴重な経験を積みました。

同年は1番打者として開幕スタメンに名を連ね、李承燁が不調に陥ると5番打者に定着しシーズン終了までその座を守ります。勝負強いバッティングは顕著で、4月には中日の絶対的クローザー岩瀬仁紀から代打逆転サヨナラ3ラン、終盤の8月には2本のサヨナラアーチと球団記録に並ぶシーズン3本のサヨナラ本塁打を記録しました。同年は、プロ入り初めて規定打席に到達し、打率.290、25本塁打、71打点、12盗塁とすべての数字でキャリアハイを残します。鉄壁な守備も評価されて初のゴールデングラブ賞も受賞しました。

さらに続く日本シリーズでもクラッチヒッターぶりを披露します。シーズン同様5番打者としてフル出場し、第2戦ではチームは敗れるも、日本ハムのエース・ダルビッシュ有から2ランホームラン。そして結果的に勝負の行方を決めた第5戦では、1点ビハインドの9回に値千金の同点本塁打を放ち、続く阿部慎之助のサヨナラ本塁打を呼び寄せました。結局23打数6安打、2本塁打とチームの日本一に貢献し、優秀選手賞も受賞して最高のシーズンを締めくくりました。

1年でレギュラーを失い、規定打席に到達しないシーズンが続く

走攻守三拍子揃った亀井義行だけに、その後も、巨人不動のレギュラーとして定着するかと思われました。しかし、ライバルの台頭、怪我などによる打撃不振で規定打席到達できないシーズンが続きます。2010年は、前年に続く5番打者として開幕を迎えましたが、打席の調子が上がらず二軍降格を繰り返します。その間、ルーキー長野久義が外野手一角のレギュラーを奪ったこともあって、同年は71試合出場で、打率.185、5本塁打、17打点と大きく成績を落としました。

その後、内野手にもチャレンジし、2011年は2年ぶりの100試合出場を達成しましたが、レギュラー再奪取にはいたりません。相次ぐ怪我も重なり、ユーティリティプレイヤーに近い存在になりつつありました。それでも、2014年は2ヶ月遅れの自身開幕を5月末に迎えると、勝負強い打撃でチームを2度目の交流戦優勝に導くMVPを受賞します。その後も外野手レギュラーとして出場し続け、69試合出場、打率.296、8本塁打、26打点という成績を残しました。2015年も、規定打席にあとわずか届かなかったものの、109試合出場で、打率.272、6本塁打、35打点と復活の兆しを見せました。

2017年シーズンは、代打の切り札として一振りに賭ける

ようやくレギュラー再奪取かと思われた2016年、またしても怪我で戦線離脱し66試合出場に留まりました。そして34歳とチームではベテランに近い年齢になった2017年は、かつての師匠で現監督の高橋由伸が担っていた代打の切り札として存在感を示しています。一振りにかける集中力を発揮して、安打数を上回る打点を記録しています。

同年の交流戦最終戦では、自身6本目のサヨナラ本塁打で就任2年目の高橋監督に通算100勝目をプレゼントしました。しかも同試合では前を打つマギーが実に3度敬遠された中で、最後に意地を見せた本塁打でもありました。延長戦でのサヨナラ本塁打は自身5本目であり、長嶋茂雄、松井秀喜を抜いて球団最多記録を樹立した一打でした。


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