名前緒方耕一(オガタコウイチ)
生年月日1968年9月2日
日本
出身熊本県
プロフィール熊本工3年のとき春夏連続して甲子園に出場し、1987年ドラフト6位で巨人に入団。

ベース1周13秒台というチームNo.1の俊足で、1988年イースタンリーグの盗塁王に輝く。スイッチヒッターとして1989年一軍昇格。1990年、1993年盗塁王。以後は持病の腰痛に悩まされ一軍定着できず、1998年シーズン終了後引退、野球評論家となる。

2001年10月巨人コーチに就任(~2003年)。2006年巨人二軍外野守備コーチ、2008年から2010年巨人一軍外野守備コーチ。2009年WBC日本代表外野守備走塁コーチ就任。

通算成績は685試合、1,851打数486安打、17本塁打、130打点、96盗塁、打率.263。盗塁王2回。熊本工業高等学校卒、右投両打、175cm、65kg

名門・熊本工時代、甲子園に2度出場し、巨人ドラフト6位で入団

緒方耕一は、熊本県に生まれ名門・熊本工高校へと進みました。1年、2年と甲子園出場を逃しましたが、3年には春夏連続出場を決めます。緒方は、俊足を生かした1番遊撃手として聖地の試合へ臨みました。尾道商業高等学校との初戦、点の取り合いとなり5-3とリードして終盤に進みましたが悔しい逆転負けを喫します。

雪辱のチャンスは夏にすぐに訪れて、初戦の横浜商業戦を3-2と勝ちきり、初勝利を収めました。続く2回戦も接戦となりましたが、0-1と1点差で甲子園を後にします。そして、卒業年の1986年ドラフト会議において、巨人からドラフト6位で指名されてプロ野球選手となりました。

スイッチヒッターとして二軍で頭角を現すも、2年間一軍出場ゼロ

同年のドラフト会議では、広島東洋カープ3位で緒方孝市が指名され、二人の「おがたこういち」というプロ野球選手が誕生します。同い年かつ九州出身で入団し、現役時代ともにチームで足のスペシャリストとして活躍し、さらに怪我に泣くという多くの共通点を持っていました。

緒方耕一は入団後、すぐさまスイッチヒッターへ転向し、ファームながらその俊足で頭角を現します。2年目の1988年、イースタンリーグタイ記録となる1試合6盗塁を記録するなど、盗塁王を獲得しました。しかし、当時一軍の遊撃手はまさに群雄割拠状態であり、川相昌弘、岡崎郁、鴻野淳基らがしのぎを削っており、緒方が入る隙はありませんでした。

熊工コンビとしてレギュラーを掴むと、松本匡史以来の盗塁王を獲得

1989年、巨人監督に藤田元司が着任すると、チームには俊足打者が不在だったこともあって緒方耕一は多くのチャンスを得ます。遊撃手、二塁手、さらには外野手と守備位置を変えながらも、一軍に定着しました。プロ入り初ホームランを、ランニングホームランで飾るなど得意の俊足を披露します。そして、1986、87年のイースタン本塁打王で、熊本工で2年先輩の井上真二も同じく抜擢されます。大人気の「熊工コンビ」で活躍を続けると、チームは波に乗ります。そのまま巨人は独走でリーグ優勝を飾り、3連敗から4連勝という奇跡の大逆転で日本シリーズも制しました。緒方は、後半は1番打者として76試合の出場ながら、打率.308、13盗塁というまずまずの成績を残しました。

1990年は、篠塚和典の衰えもあって、二塁手として多く出場します。前年に続く1番打者として定着し、出塁率こそ低いものの、果敢に盗塁を仕掛けました。初めて規定打席にも到達し、33盗塁で初の盗塁王に輝きます。巨人選手の盗塁王は、青い稲妻とよばれた松本匡史以来のことでした。同年の巨人は、投手力が異常のほど好調であり、5人の二桁勝利達成者が誕生します。そして1シーズンをわずか10名のみの投手で乗り切り、史上最速の2年連続リーグ優勝を飾りました。しかし、続く日本シリーズにおいては試合勘が戻らず、黄金時代真っ只中の西武ライオンズの前に屈辱の4連敗を喫します。緒方も、シリーズでアキレス腱を故障し、その後の野球人生を縮めることになりました。

自身2度目の盗塁王を獲得し、1994年は日本一を決定付ける満塁本塁打

1991年以降も、内外野守備をこなしましたが、アキレス腱の怪我は、緒方耕一からスピードを奪いました。2年間は盗塁数が激減して人桁数となり、盗塁死のほうが多くなります。それでも逆に選球眼はよくなり、出塁率は年々数字をあげていきました。そして、1992年は怪我を回復させながらも、試合に出場し続け自身2度目の規定打席到達を実現しました。

そして怪我が癒えた1993年、再びその足が武器となります。同年は、長嶋茂雄が監督に復帰し、緒方は1番中堅手として、1990年以来の100試合出場を果たしました。打率は.234と低調でしたが、24盗塁で石井琢朗と並び2度目の盗塁王を獲得します。この数字は、1950年の2リーグ制以降で最小の数字でした。さらに、同年以降、巨人選手は盗塁王獲得から大きく遠ざかり、ようやく2011年の藤村大介が獲得するまで18年を要しました。

1994年、腰痛も酷くなり、外野手スタメンの座を新外国人のグラッデンやコトーに奪われます。緒方はここ一番の代走や守備固めとしての起用が多くなりました。同年、巨人は10.8決戦と呼ばれた最終優勝決定戦を制し、見事にリーグ優勝を成し遂げます。続く日本シリーズ第5戦では、まさかの満塁本塁打を放ち、長嶋監督にとって初の日本一達成に大きく貢献しました。

30歳の若さで現役生活にピリオドを打つと、指導者人生に転身

1995年以降は、怪我を克服できず一気に低迷します。結局1998年、30歳という若さで現役引退を表明しました。引退後は、プロ野球解説者に転身し、ラジオのベンチリポートでは「マイクを持った盗塁王」と呼ばれました。2002年からは、再び巨人のユニフォームに袖を通し、コーチに就任します。自身の走塁術を当時若手だった鈴木尚広たちに伝授しました。

その後、2009年には原辰徳監督の下、第2回WBC日本代表の外野守備・走塁コーチに就任し、本戦では一塁コーチャーとして大会連覇に貢献しました。2012年からはテレビ東京「neo sports」で4年もの間コメンテーターを務めました。


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