名前 | 高橋慶彦(タカハシヨシヒコ) |
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生年月日 | 1957年3月13日 |
国 | 日本 |
出身 | 北海道芦別市 |
プロフィール | 1975年ドラフト3位で広島入団。1977年一軍入りし、1978年レギュラー。1979年に初の盗塁王、33試合連続安打の日本記録、日本シリーズで最優秀選手に輝いた。
数少ないスイッチヒッターとして活躍し、4年連続3割をマーク、1985年73盗塁を記録。1990年ロッテ、1991年阪神に移籍。盗塁王3回。レコードも吹き込み、甘いマスクに女性ファンの間で人気があった。1992年引退。 1995〜1997年ダイエーのコーチを務めた。2004年からロッテのコーチを務め、スイッチヒッターの西岡剛を育成。2010年はロッテ二軍監督としてファーム日本一を達成。2012年チームを退団。2016年オリックス打撃コーチ就任。 通算成績は1,722試合、6,510打数1,826安打、163本塁打、607打点、477盗塁、打率.280。盗塁王3回、ベストナイン5回。城西高卒、右投両打、180cm、76kg |
甲子園で見せた走塁がスカウトの目に留まり、ドラフト指名される
高橋慶彦は、北海道の炭鉱で栄えた芦別市に、実業団クロスカントリースキー選手の父を持って生を受けます。4歳のとき東京都清瀬市に移り、父の影響で始めたスキーは自然と脚力が鍛えられていました。小学4年生の頃から野球を始め、それまで甲子園出場経験のなかった城西高校へ進学します。そして1974年夏、エースで4番の高橋は、春夏通じて初となる甲子園大会出場を決めました。
佐世保工との初戦、緊張の甲子園初マウンドでしたが、相手打線を2安打完封し3回戦に進出します。続く郡山戦は、立ち上がりに2点を先制され、その後同点に追いつきましたが、終盤引き離されて準々決勝進出を逃しました。高校生活最後の夏が終わりましたが、広島東洋カープの名スカウト木庭教がスタンドで目を光らせていました。そして、高橋の投球内容ではなく、本塁への走塁にセンスを見出し、同年のドラフト3位指名につながりました。
スイッチヒッター転向を成功させて、遊撃手レギュラーを掴む
プロ入りと同時に投手から内野手へ転向しましたが、プロのレベルの高さに愕然とし自信をなくします。しかし当時の古葉竹識コーチに、足で生きるよう提案されてスイッチヒッター転向を言い渡されました。そこから、山本一義打撃コーチと共に猛特訓を開始し、一日1000スイングを自らに課します。高校時代は投手だったため、遊撃手としての守備も一からの習得でしたが持ち前の練習量で自分のものにしました。
こうした未知の挑戦だったため、ルーキーイヤーはすべて二軍で過ごし、2年目も一軍出場は代走で5試合のみと全くチームに貢献できずに終わりました。3年目は58試合に出場し初安打を記録するなど、ようやくプロとしてスタートを切ります。そして、4年目の1978年、大きな転機が訪れます。高橋慶彦は、同年の開幕メンバーに1番遊撃手として名を連ねました。コーチ陣が大反対を唱える中、古葉監督は賭けに出たのでした。監督自身の進退もかかった起用は、高橋の闘争心を掻き立たせます。すると110試合に出場して、打率.302、リーグトップの10本の三塁打、15盗塁などレギュラーとして見事な働きを見せました。
日本新記録の33試合連続安打、さらには日本シリーズMVPと大躍進
さらに1979年は、高橋慶彦にとって飛躍の年となりました。不動の1番打者に定着すると、6月6日に放った安打を皮切りに当時の日本記録を塗り替える33試合連続安打という偉業を成し遂げます。6月当初は4位だったチームが、記録更新とともに2位に浮上し、優勝争いの中心に躍り出ました。
また高校時代は一度も盗塁経験がありませんでしたが、同年は55盗塁と盗塁王まで手中に収め、リーグ優勝の立役者となりました。2度目のリーグ優勝を達成した広島は、「江夏の21球」でも有名な近鉄との日本シリーズを制して初の日本一を成し遂げます。そして同シリーズのMVPは全試合で安打を放ち、打率.444を記録した高橋でした。
不動のリードオフマンとして広島黄金時代を支え、3度の日本一を経験
1980年は初のフル出場を達成して、リーグ最多安打で3年連続打率3割、2年連続盗塁王など好調を維持します。高橋慶彦がリードオフマンとして塁上をにぎわし、衣笠祥雄、山本浩二ら脂の乗ったメンバーがクリーンナップとして活躍し2年連続日本一と、広島は黄金時代を迎えました。
プロ9年目の1983年には、山内一弘臨時コーチの教えにより打撃フォームを改造します。するとそれまでシーズン最高本塁打が7本だった高橋が、24本塁打と長打力まで身につけました。それでも同年70盗塁とスピードは衰えませんでした。1984年もチームは日本シリーズへ進出し、高橋は打率.500、1本塁打、3打点、3盗塁、8得点と日本一に貢献します。1985年には73盗塁で3度目の盗塁王を獲得するなど、広島機動力野球の申し子として活躍を続けました。
練習熱心が仇となり、晩年はロッテ、阪神にトレード移籍して引退
どれだけ実績を積んでも、自分を作り上げた猛練習に手を抜くことはありませんでした。そしてそれが時には仇となります。1986年もリーグ優勝を飾り、連覇を目指した1987年開幕前のことでした。球団が主催するイベント出席よりも練習を望んだ高橋慶彦に対し、造反行為としてまさかの2週間の謹慎が言い渡されます。3年連続のフル出場が途絶え、球団との距離が開き始めます。自身も徐々に成績を落とすと1989年オフには、ついにトレードでロッテへと移籍することになりました。
33歳で新たなユニフォームを着ましたが、かつての輝きを放てなくなっていました。1977年から13年連続で続けていた二桁盗塁も7つに終わり、100試合出場して打率.207と大きく期待を裏切りました。さらに1年限りで今度は阪神にトレード移籍します。しかし、57試合、19試合と年々出場機会が奪われて1992年限りで現役を引退しました。通算2000本安打には届きませんでしたが、盗塁王を3度獲得し、歴代5位の477盗塁とまさに一時代を築きました。
現役引退後は、古巣含めたパ・リーグ3球団の指導者として活躍
引退後の1995年、福岡ダイエーホークスのコーチに就任します。熱い野球への思いに歯に衣着せぬ発言から、達川光男コーチと衝突もありながらも、後に黄金時代を構築する選手たちを育成しました。それからしばらくの間を解説者として過ごすと、2004年から晩年1年だけ過ごした千葉ロッテのコーチに就任します。同じスイッチヒッターの西岡剛を一人前に育て、2010年には二軍監督としてファーム日本一にも輝きました。2012年までの9年間、ロッテの指導者として過ごしました。