名前達川光男(タツカワミツオ)
生年月日1955年7月13日
日本
出身広島県
プロフィール1977年ドラフト4位で広島に入団。56年から控えの捕手として一軍に上がり、1983年レギュラーポジションを獲得。1984年には強気のリードで広島の優勝に貢献。1984年、1986年、1988年ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞。オールスター出場7回。1992年引退。

引退後はフジテレビの野球解説者となる。1995年ダイエーバッテリーコーチ。1998年広島二軍監督、1999年一軍監督に就任。一軍監督の時は晃豊を名乗った。2000年11月退団、報知新聞で野球評論家を務める。1997年には映画「現代任侠伝」に出演した。

その後も、阪神タイガース(2003年)、中日ドラゴンズ(2014-2015年)、2017年現在は福岡ソフトバンクホークスのコーチを務めている。

通算成績は1,334試合、3,636打数895安打、51本塁打、358打点、17盗塁、打率.246。ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞3回。広島商業卒、東洋大学卒、右投右打、177cm、75kg

広島商業時代は、怪物・江川卓を下すなど、甲子園優勝も経験

達川光男は、広島県で生まれ、当時すでに甲子園で5度優勝していた名門・広島商業へ進学します。1年時、代役で捕手を務めたところ、その強肩が名将迫田穆成監督の目に留まり、正捕手へと抜擢されました。そして2年秋にチームとして結果を残し、3年春には別名「江川の大会」と呼ばれたセンバツに挑みます。広商野球を実践し少ない得点で準決勝に進むと、怪物・江川卓率いる作新学院との対戦となりました。江川はそこまでの3試合で49奪三振という異次元の数字を残していましたが、迫田監督は江川対策を万全に乗り込んでいました。徹底した待球作戦に機動力も存分に使い、わずか2安打ながら2-1と勝利します。しかし決勝では延長戦で横浜に敗れ準優勝に終わりました。

それでも続く夏も甲子園出場を決めると、機動力に磨きをかけて全国優勝を成し遂げます。決勝戦では、サヨナラスリーバントスクイズというまさに広商野球を象徴するプレーで決めました。その後、東洋大学へ進学すると、後に西武入りする松沼雅之とバッテリーを組み、1976年の優勝に貢献します。本田技研への内定も取り付けていましたが、地元広島東洋カープから4位指名を受けてプロの道へと進みました。

入団当初は、捕手としての技術力に劣り、5年間は控えとして過ごす

当時の広島東洋カープは、正捕手・水沼四郎、控え捕手・道原裕幸と2枚体制が確立していました。新人の達川光男は、打撃力はプロとしてかなり厳しく、リードそして守備力で勝負するしかありません。しかし、入団当初は何も突出したものが無く、ルーキーイヤーは12試合、そしてチームが連覇を決めた1979-1980年は、49試合、9試合と控えに甘んじました。

しかし、ブルペンで先輩投手たちのボールを受け続けてキャッチングの技術を上達させ、試合では身体でボールをとめてパスボールを防ぐなど、捕手として能力を年々上昇させました。すると1982年から、ベテラン水沼に代わって先発マスクを任されることが多くなり、同年は77試合出場とようやく頭角を現すようになりました。

10年間、広島正捕手の座に君臨し、チームを3度のリーグ優勝に導く

入団6年目の1983年から、広島東洋カープの正捕手を10年にわたって務めます。入団時、ダメだしされたバッティングでは貢献できず、打率.280、10本塁打を超えたことはプロ生活で一度もありませんでした。それでも、守備の要の捕手として君臨します。レギュラーを獲得して2年目の1984年、山根和夫、北別府学、大野豊という強力投手陣をリードし逆転で初めてリーグ優勝に貢献しました。さらに続く日本シリーズでも4勝3敗で阪急ブレーブスを下し、捕手としてギアを一段上に上げます。

阿南準郎新監督が就任した1986年、エース北別府が投手部門のタイトルを独占する活躍を見せると、達川も正捕手としてチーム防御率2.89という驚きの数字に貢献します。巨人と激しいデッドヒートとなりましたが、ゲーム差無しの勝率わずか3厘差でリーグ優勝を飾りました。1991年は、炎のストッパー津田恒美が闘病に入る中、佐々岡真司、北別府、川口和久、大野ら投手4人全員がタイトルホルダーを奪う活躍を見せ、山本浩二監督の初優勝を正捕手として実現しました。達川は、1984年の古葉竹識監督含めて異なる3人の監督の下すべてで優勝を飾り、扇の要の役割をこなしました。

リードにおける囁き戦術に疑似死球の演技など、珍プレーの宝庫

入団当初と比べキャッチングの技術は格段に上昇し、投手に信頼される捕手となっていました。そして、リード面では、かつての野村克也を彷彿させる「囁き戦術」の持ち主でもありました。広島弁で突然世間話を始めることもあれば、サインとは異なる球種をつぶやくなど打者の集中力をかき乱します。こうして広島強力投手陣に一役買っていたのでした。

さらに、打撃で貢献できないことが常でもあったため、実際は当たっていないにもかかわらず死球を食らったという演技で一塁へ走る様は、「グラウンドの詐欺師」とも呼ばれ、晩年は風物詩になっていました。後に、テレビの珍プレーで何度も取り上げられるなど、野球ファンには記憶に残る選手の一人です。

指導者時代、広島監督に就任するも2年連続5位と成績を残せず

1992年、37歳でのシーズンを終えて現役引退を決意します。その後2年間を解説者として過ごすと、再び指導者としてユニフォームを着ます。1995年、1年間だけ福岡ダイエーホークスのバッテリーコーチを務めると、1998年には古巣広島の二軍監督に就任しました。

さらに1999年から一軍監督に昇格しましたが、当時の広島はすでに低迷時代の入り口にいました。かつて投手王国といわれましたが、世代交代が上手く進まず、前年から3年連続でチーム防御率はリーグ最下位と低迷します。さらに、慢性的な戦力不足も加わり、1999年から2年連続でリーグ5位に終わりました。結局、自身の後継者育成もままならぬまま、2年で監督を辞任します。

その後しばらく、テレビの野球解説者として過ごし、得意の喋りでお茶の間の人気者となりました。2014年、約10年ぶりに中日ドラゴンズコーチとして現場復帰すると、2017年現在は福岡ソフトバンクホークス一軍ヘッドコーチとして常勝軍団を支えています。


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