名前川藤幸三(カワトウコウゾウ)
生年月日1949年7月5日
日本
出身福井県
プロフィール1967年若狭高の投手として春夏連続甲子園に出場。

1968年ドラフト9位で阪神に入団。遊撃手、外野手を経て、代打一筋。1983年にはクビを宣告されながら引退を拒否、大幅減俸をのんでユニフォームを着続け、1986年はシーズン開幕とともに“狂い咲き”と冷やかされるほど打ちまくり、初めてのオールスターに出場。同年引退。人呼んで“ナニワの春団治”。

1987年よりテレビ・サンケイスポーツ専属の野球解説者となる。1990年から阪神コーチを務め、1991年退団。1992年TBS「眠れない夜を数えて」に刑事役で出演。著書に「阪神タイガース再建・建白書」。

通算成績は771試合、895打数211安打、16本塁打、108打点、29盗塁、打率.236。若狭高卒、右投右打、174cm、74kg

春夏連続甲子園出場も、アクシデントもあって聖地1勝できず

川藤幸三は福井県三方郡に生まれ、両親、兄弟など含めて10人という大家族で育ちます。2歳年上の兄・龍之輔と同じ野球の道へ進みましたが、実際のきっかけは小学6年生当時、同郷の山口良治(京都伏見工業ラグビー部優勝監督でドラマ「スクールウォーズ」のモデルとなった教師)に半ば強引に、中学の野球部へ誘われたことでした。

兄が若狭高校1年のとき、甲子園行きを決めてベンチ入りしたことで自身も応援に駆けつけ、同じく甲子園を夢に描きます。そして2年秋にはエースとして北信越大会準優勝を収め、1967年春のセンバツ甲子園に出場します。しかし初戦の報徳学園戦でピッチャーライナーを受けて三角筋断裂の重傷を負い、チームも大敗。投手を断念し4番左翼手として夏も甲子園出場を果たしましたが、今度は完封負けし同じく初戦敗退に終わりました。

ドラフト9位で阪神入団し、俊足を武器に一軍定着を目指す

1967年当時のドラフトでは指名選手数は無制限だったこともあり、9位指名で阪神タイガースへ入団します。兄・龍之輔は1965年に一足早く投手としてプロ入りしており、兄弟プロ野球選手となりました。入団当初、チームトップクラスの俊足を誇り、それを生かすためにも内野手から外野手へ転向します。そして、まずは代走や守備固めとしての出場で一軍定着を目指しました。

ルーキーイヤーのシーズン終盤、一軍初出場の機会を得ると、その翌日には初安打を初本塁打で決めるなど好スタートを切ります。2年目の1969年は、ウエスタンリーグで1イニング3盗塁を決めるなど、シーズン30盗塁で盗塁王を獲得しました。それでも一軍出場機会はそれほど増えず、入団4年間合計でも50試合を下回る程度に留まります。1970年から3年間、兄がトレード移籍で巨人に入団していましたが、兄弟対決は実現しませんでした。

アキレス腱断裂で武器を奪われ、プロ野球人生を代打一本に賭ける

1973年以降、徐々にスタメン出場する機会が増えていきます。同年は主に2番や8番として77試合に出場し9盗塁と機動力を見せ始めました。さらに翌1974年はキャリアハイとなる106試合に出場し、前年同様チーム最多の9盗塁に、リーグ最多の20犠打を決めるなど2番打者としてさらにアピールします。まずは準レギュラーとしての地位を確保し、次の階段を上ろうとしたとき、まさかのアクシデントが起こりました。

1975年、川藤幸三はアキレス腱断裂という大怪我を負い、自身のプロ野球選手としてのプランが一気に崩れます。最も得意としていた俊足を奪われ、守備固めとしてもチームに貢献できなくなりました。プロとして生き残るためにはバットしか残されていません。その当時の通算打率は.185でしたが、ここ一番の代打として生きることの決意を固めたのでした。

1976年、母親方の姓を名乗り、本名は武田幸三となりましたが、川藤幸三の登録はそのままとしました。当初慣れない代打でなかなか結果を残せず、打率も1割台や2割台に留まります。しかし1978年には巨人戦で延長12回サヨナラヒットを放つなど、代打として存在感が大きくなってきました。同年から4年連続打率3割を記録し、代打の切り札として完全に一軍に定着していました。

引退勧告を受けるも、給料拒否して阪神残留しファンの心を掴む

1982年から成績が下降し、34歳当時の1983年オフには球団から戦力外通告を受けてしまいます。しかし、川藤幸三はここで前代未聞の行動をとりました。首脳陣に対して、給与ゼロでも構わないから野球を続けさせてほしいと懇願したのです。球団もそれを受け入れ、年俸60%ダウン(推定)という条件で阪神残留が決まりました。

こうした破天荒な生き方は、阪神ファンの喝采を呼び、「浪速の春団治」と称されます。さらに、上岡龍太郎を始めとする著名人たちがカンパを募る行動に移すほどファンから愛されました。実際に集めたお金を持参しましたが、川藤はそれを固辞し甲子園の年間予約席を購入してファンの無料招待枠にあてたという話は有名です。

優勝に貢献、初オールスターなど、強烈な存在感を示して現役引退

何とか選手生命を伸ばした川藤幸三は、3年連続で印象に残る活躍を残しました。まず1984年、安打数は13本に留まりましたが20打点と代打として大きな仕事をして、年俸を元に取り戻します。さらに、1985年はチームの優勝に裏方として大きく貢献します。代打としての出場は、前年の半数に留まり成績も平凡でしたが、ベテランとして首脳陣と選手のつなぎ役に徹しました。外国人バースに対しても、独特なコミュニケーションでチームへ馴染ませるなどして3冠王獲得のバックアップをします。同年、自身初めての優勝を味わい、監督、主力選手に続いて胴上げをされたほど、チームの貢献度は高いものでした。

そして結果的に現役生活最終年となった1986年、プロ19年目にして初めてオールスターの舞台に立ちました。監督推薦としての出場でしたが、試合でも話題をかっさらいます。第2戦、代打として登場すると左中間を破る見事なヒットを放ちましたが、走れない川藤は2塁で楽々アウトになり、観客の笑いを誘いました。同年限りで引退し、生涯成績は211安打、打率.236と特筆すべきものでは決してありませんでしたが、阪神ファンにとっては唯一無二の特別な選手でした。

引退後も「川藤節」の独特なキャラクターで、人気解説者として活躍

現役引退後は、1990年から阪神コーチを歴任しましたが、ユニフォームを着たのは2年間のみで、解説者としての活躍のほうが光ります。現役時代、野次将軍の異名を取ったこともあって、タイガースのご意見番として強烈な個性を放っています。地上派放送が激減した現在、解説者という椅子も減っていますし、毎年のように名選手が引退するためライバルは数知れません。しかし、実に30年近く解説者として不動の地位を築いているのは、誰にもかもし出せない型破りの解説のなせる技です。2010年からは、第7代目阪神OB会長に就任し、益々勢いをましています。


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