名前村田兆治(ムラタチョウジ)
生年月日1949年11月27日
日本
出身広島県豊田郡本郷町
プロフィール1968年ドラフト1位で東京オリオンズ(現・ロッテ)に入団。“まさかり投法”による速球を武器にエースとして活躍、1975年・1976年と2年続けて防御率1位、1981年には最多勝を獲得。

1982年ヒジの故障をおこして丸2年戦列を離れるが、1984年復帰、1985年開幕11連勝を含む17勝5敗をあげカムバック賞受賞、エースに返り咲く。1989年5月プロ野球21人目の通算200勝を達成。同年7勝9敗、防御率2.50でリーグ史上最高齢の最優秀防御率投手賞受賞。1990年10勝をあげて引退。最多暴投148の記録もある。

同年NHK解説者に就任。また、全国の離島での野球指導を始め、1992年長崎・生月島で野球教室を開催。1995〜1997年ダイエー投手コーチ。妻との共著に「兆治さん、わたしの直球受けとめて」がある。

通算成績は604試合、215勝177敗33S、防御率3.24、3,331回1/3、2,363奪三振。最多勝1回、最優秀防御率3回、最多セーブ投手1回、最多奪三振4回、前後期MVP2回、ベストナイン1回、カムバック賞、東京都民文化栄誉章、朝日スポーツ賞、フェアプレー賞。福山電波工(現・近畿大学附属広島)卒、右投右打、180cm、76kg

甲子園未経験も、ロッテドラフト1位指名で夢のプロ野球選手に

村田兆治は広島県に生まれ、カープファンだった父親に野球観戦に連れられて以来、プロ野球選手を目指すようになります。小学4年からソフトボール部、中学では野球部に所属して夢の実現に向けて努力しました。

そして福山電波工業高校(現在の近畿大学附属広島)に進学した頃から、その豪速球は注目されます。1学年上に後にプロ入りした浅野啓司がいたため、自身がエースの座を掴んだのは2年秋でしたが、その球速は150キロ以上計測していたといわれています(当時スピードガンは無い)。県下有数の投手となりましたが、当時の広島県は広陵含めて競合揃いであり、村田は一度も甲子園出場を実現できませんでした。しかし、1967年ドラフト1位で東京オリオンズに指名されて、夢だったプロ野球選手になることができました。

大先輩に刺激を受けると、マサカリ投法で大きく頭角を現す

ルーキーイヤーは、ほとんどを二軍で過ごしシーズン終盤に3試合一軍マウンドを経験するだけに終わります。ドラフト1位入団の期待には応えられず、しかもプロ意識にも欠けていました。契約金を湯水のように遊びに費やし、無駄な時間を過ごしていましたが、そんな甘い考えを一掃させる光景に出くわします。すでにプロで250勝以上記録していた大投手・小山正明がたゆまぬ努力する姿を目にしました。本人からも叱咤激励されると、そこからの村田はトレーニングの鬼と化します。

そうした練習はうそをつかず、2年目からは一軍に定着して結果を残していきました。2年目1969年5月には初先発を初勝利、初完投、初完封で飾ります。1971年には、後に代名詞となった大きく左足を上げる「マサカリ投法」を完成させて初の二桁12勝をマークしました。その後、先発ローテーション投手となり、1974年にはロッテの優勝に大きく貢献します。さらに日本シリーズでも胴上げ投手になるなど、順調なプロ野球人生を過ごしていました。

フォークボールを武器に、パ・リーグを代表する投手に成長

1975年から、村田兆治はさらにギアを一段上に上げました。同年は初の開幕投手を務め、先発にリリーフにフル回転します。13セーブで最多セーブ王に輝くばかりか、防御率2.21で最優秀防御率と二つのタイトルを獲得しました。翌年、無敵のフォークボールを修得するとまさに奪三振マシンと化します。同年は、21勝をマークして、2年連続最優秀防御率、そして最多奪三振とタイトル獲得の常連に名乗りを上げました。

フォークボールの多投で暴投の数は増えましたが、1975年から7年連続開幕投手を務め、5度の二桁勝利に、4度の最多奪三振王のタイトルを獲得します。1981年には開幕から怒涛の11連勝をあげて初の最多勝となるなど、まさにリーグを代表する投手として通算150勝もクリアしていました。

肘を故障し、当時日本で前例のないトミー・ジョン手術を選択

1982年、8年連続開幕投手を務め、2完封を含む4勝と好スタートを切りました。しかし5月の近鉄戦で突如右肘に激痛が走ります。どの病院の検査でも異常なしにも関わらず、痛みは消えず、残りのシーズンを棒に振りました。藁をも掴む思いで海外のスポーツ医学の権威であったフランク・ジョーブの診察を受けるため渡米します。ここで肘の腱が切れていることが判明し、治すためには左腕の腱移植手術しか残されていないことを知りました。

当時の日本球界では利き腕にメスを入れることは完全タブーでありましたが、再起をかけてトミー・ジョン手術に挑みます。無事に成功すると、それは長期リハビリがスタートしたことを意味しました。父の死も乗り越え、夫婦二人三脚で復活に向けて、長く辛い日々を過ごすと、1983年冬にキャッチボールができるまでに回復します。1984年にはファームでマウンドに上がるなど、2年間という長いリハビリ期間がようやく終わりに近づいていました。

サンデー兆治として不死鳥のごとく復活し、カムバック賞を受賞

1984年シーズン終盤に一軍復帰し、5試合で9イニングを投げました。そして完全復活をかける1985年シーズンがスタートします。全盛期と変わらないマサカリ投法で1球1球懇親のボールを投げる村田兆治に、4番落合博満も2本のアーチで強力にリードしました。ジョーブ医師からは、1試合100球の制限を設けられていましたが、その約束を破り、155球の見事な完投勝利を成し遂げます。

普通の投手よりも回復が遅れるため、当時の主流であった中4日登板ではなく、中6日での先発を許されました。そしてその週1度の登板は日曜日にあたり、サンデー兆治として観客の大声援も武器とします。同年は、オール先発で24試合に登板し、開幕11連勝を含む17勝5敗で見事なカムバック賞を受賞しました。

通算200勝も達成し、引退試合で完封勝利という見事な引き際

完全復活を見せた翌年から再び開幕投手を務めます。三振を狙うことは少なくなりましたが、1987年、史上13人目の2,000奪三振を達成します。1988年には9度目の二桁勝利、1989年には22試合の先発で16完投という39歳という年齢を全く感じさせない投球を続けました。一度は諦めかけた通算200勝も達成し、3度目となる最優秀防御率のタイトルすら手にします。

そして40歳として迎える1990年、5年連続通算13度目の開幕投手を務めて完投勝利でスタートします。そして9個の勝ち星を積み重ね、10度目の二桁勝利を賭けた最終戦も先発としてマウンドに上がりました。同試合で、145キロを記録するなど完封で10勝目をあげます。またその通算215勝目を、村田の現役生活最後の勝利とし現役を引退しました。

引退後もトレーニングを続け、年齢60代で140キロを目指す

現役引退後は、数年間の解説者生活を経て、1995年から3年間福岡ダイエーホークスのコーチを務めます。そして、現役投手よりもスピードが速いコーチとしても有名になりました。以後コーチ業には就いていませんが、現役当時から続けるトレーニングを止めません。そのためマスターリーグでは、一人異次元のスピードボールとフォークを投げています。2005年には野球殿堂入りを果たし、日本プロ野球OBと共に、「対馬まさかりドリームス」というチームを設立し、投手兼監督としても活躍しています。

現代野球において、トミー・ジョン手術は日本でも普通に選択肢の一つとなり、多くの選手が術後復活をとげています。しかし、前例のない中、挑戦した村田兆治の功績は計り知れません。そして年齢60台となった現在でも、本気で140キロを目指しています。

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