名前小宮山悟(コミヤマサトル)
生年月日1965年9月15日
日本
出身千葉県柏市
プロフィール柏市立第四小から野球を始め、芝浦工大柏高を経て、2浪ののち早稲田大学に進学。6大学リーグ戦での通算成績は20勝10敗。140キロ近い速球はリーグ一を誇り、最終学年の平成元年には日米大学野球のメンバーにも選ばれる。

1990年ドラフト1位でロッテに入団。1993年史上初の開幕から6連続完投勝利。1997年最優秀防御率達成。1999年自由契約となり、横浜に移籍。2001年7月対巨人戦で通算100勝を達成。打者との駆け引きと制球が持ち味。

同年オフ、FA権を行使してメジャー挑戦を表明。かつてのロッテ監督バレンタインが指揮を執るニューヨーク・メッツと契約。25試合に中継ぎで登板するも0勝に終わり1年で退団。1年間の浪人生活を経て、2004年から古巣ロッテに復帰。主に中継ぎとしてチームに貢献し、2009年バレンタインの退任とともに現役引退。2014年、Jリーグ理事に就任。

NPB時代の通算成績は455試合、117勝141敗4S、7ホールド、防御率3.71、2,293回0/3、1,533奪三振。最優秀防御率1回。

MLB時代の通算成績は25試合、0勝3敗、防御率5.61、43回1/3、33奪三振。早稲田大学教育学部体育学専修、183センチ、85キロ、右投右打

二浪して早稲田大学に入学すると、憧れの早慶戦でも活躍

小宮山悟は、千葉県柏市に生まれ、市立第四小学校時代から野球を始めます。当時から投手としてカーブを投げ始めますが、市立柏第四中学校、芝浦工業大学柏高校時代はチームとして突出した成績を残せませんでした。高校時代にテレビで見た東京六大学野球に憧れ、早稲田大学に入って神宮球場で投げてみたいと思うようになります。そして二浪してまで一般入試で合格してみせました。

当時の早大投手陣は手薄だったため、1年からレギュラーとなりいきなり早慶戦のベンチ入りも果たします。2年秋には早くもエースの座に就き、早慶戦で完封するなど大きく頭角を現しました。特に慶応大学・大森剛との対決は早慶戦の名シーンの一つでした。順調に勝ち星を積み重ね、4年時には主将に任命されます。在学時、教員免許も取得し、大学通算で20勝10敗、防御率1.85、165奪三振という好成績を残しました。

ロッテ入団2年目から、エースとして4年連続開幕投手を任される

1989年のドラフト会議では、野茂英雄に史上最多となる8球団の指名が集中します。当時のロッテオリオンズも指名していましたが抽選で破れ、外れ1位で指名したのが小宮山悟でした。そして前年まで2年連続最下位だったロッテは、投手陣も貧弱でルーキーイヤーから多くの登板機会が与えられます。同年のローテーションは大ベテランの村田兆治や、ともに21歳と若手の伊良部秀輝、前田幸長であったため、自然と小宮山が中心となり、チーム最多の先発登板と投球回数を記録しました。2完封を達成するなどリーグ4位の防御率3.27を残しながらも、投打のバランスは悪く6勝で終わりました。

1991年からは4年連続開幕投手を務めるなど、まさにチームのエースへ就任します。2年目には初の二桁10勝をマークしましたが、同年から2年連続でリーグワースト敗戦を喫しました。1993年は開幕を完投勝利で飾るとそこから6試合連続完投勝利というプロ野球記録を達成します。しかしその後は6連敗し、勝利数はキャリアハイの12勝でしたが14敗と4年連続で負け越しました。こうしてチーム状況が悪いにもかかわらず、先発の柱として投げ続けたことで、1990年からの10年間はプロ野球で最もアウトを捕った投手にもなりました。

バレンタインとの出会いが契機となり、最優秀防御率に輝く

ロッテ入団以来、チームはオールBクラスでしたが、1995年に新監督バレンタインが就任するとチームにも個人にも変化が現れます。メジャー流の調整を身につけると、11勝4敗で初めてシーズン勝ち越しで終わりました。同年はヒルマン、伊良部秀輝と強力先発3本柱を形成し、10年ぶりのリーグ2位を達成します。さらに1997年には、データをフルに投球に生かし最優秀防御率に輝くなど、初めて2年連続で好成績を残しました。入団当時から制球力がありましたが、当時はさらに磨きがかかり、「投げる精密機械」や「ミスターコントロール」の異名をとっていました。

しかし、敬愛するバレンタイン監督は1年で解任されて、チームは1996年から再び下位に低迷しました。1998年にはまさかの18連敗も喫しており、小宮山悟は自身の進退をかけて球団改革を提案します。ところが結果的には要望は受け入れられず、居場所がなくなり自由契約という形でチームを去ることになりました。

横浜を経て、メジャーへ移籍するも、爪痕を残せず挑戦を終える

2000年からは、メジャー挑戦を視野に入れて横浜ベイスターズへ移籍します。前半戦を8勝4敗で乗り切るなど、初のセ・リーグでも流石の投球内容を披露します。しかし後半は一転して7連敗で移籍1年目が終了しました。2001年、小宮山悟は自身7度目の開幕投手に抜擢されます。同年はフルシーズンで安定した成績を残し、チームトップの12勝をマークしました。

同年オフ、FA権を行使して希望するメジャーリーグ挑戦を表明します。そして奇しくも、バレンタインが監督を務めるニューヨーク・メッツとの契約に合意し、恩師の下での2度目のプレーが決まりました。37歳にして憧れのメジャーリーガーになりましたが、成績は芳しくなく海外挑戦はわずか1年で終わりを告げます。挑戦者というよりはご褒美という感覚が強く、ハングリーさを失っていました。当初こそ「和製マダックス」と期待されましたが、25試合オール中継ぎで登板して、0勝3敗、防御率5.61と日本通算100勝投手の実力を発揮できませんでした。

バレンタインのロッテ監督復帰に伴い、自身も古巣に復帰

メッツとの契約延長、さらには他球団への移籍も実現せず、2003年は浪人生活を余儀なくされました。1年間はトレーニングをしつつ解説者として過ごすと、2004年再びバレンタインとが監督に再就任した古巣ロッテへ復帰します。

すでに38歳とベテランのため、小宮山悟は突出した活躍は見せられませんでした。それでも2005年には、自ら敗戦処理を買って出るなど、チームが起こしたリーグ3位からの日本一という「史上最大の下克上」に陰ながら貢献します。同年には、「シェイク」というナックルに近い新魔球を編み出すなど、飽くなき挑戦を続けました。2009年、44歳にしてバレンタインとともに歩んだ野球人生にピリオドを打ちます。二度目のロッテ在籍は6年で10勝に終わりました。

現在は、クレバーな視点で野球解説者・指導者として活躍中

クレバーなピッチングを披露し通算117勝をマークした小宮山悟には、即コーチの椅子が用意されましたが、それを固辞して解説者に転身していました。現役時代晩年には、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に入学して二足のわらじを履いており、そこで研究した結果を解説者時代に生かしています。2014年には、元プロ野球選手でありながら、Jリーグ理事に就任しました。そうしたリレーションから、当時理事長を務めていた川淵三郎の依頼で首都大学東京の硬式野球部指導も始めています。

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