名前渡辺俊介(ワタナベシュンスケ)
生年月日1976年8月27日
日本
出身栃木県
プロフィール小学時代から投手を務め、中学2年の時下手投げに転向。

国学院栃木高、国学院大学を卒業後、平成11年社会人野球の新日鉄君津に入社。多彩な変化球を武器に活躍し、同年秋の日本選手権で東芝の3大タイトル制覇を阻止した。同年関東リーグ優秀投手賞を獲得。12年シドニー五輪では予選リーグで1勝を挙げ、4位。

13年ドラフト4位でロッテに入団。同年9月対ダイエー戦でプロ初勝利、初完封。3年目からローテーション投手に定着。2004年に12勝、そして2005年は15勝で日本一に貢献。2006年、第1回WBC日本代表に選出され3試合に登板して日本の優勝に貢献。

その後不調に陥るも、2008年に3年ぶりの二桁13勝をマーク。2009年第2回WBCでも中継ぎとして活躍し日本の連覇に貢献。2011年、規定投球回数クリアが8年連続で途切れると、年々出場機会を減らし2013年オフ自由契約となる。

37歳にしてメジャー挑戦を表明し、ボストン・レッドソックスとマイナー契約。結果を残せず解雇通告を受けるも、アメリカに残独立リーグやベネズエラのウィンターリーグでもプレー。2015年12月からは新日鐵住金かずさマジックのコーチ兼選手として活躍中。

通算成績は255試合、87勝82敗1ホールド、防御率3.65、1,578回1/3、846奪三振。國學院栃木高校卒、国学院大学卒、右投右打、177センチ、70キロ

大学まで2番手投手が都市対抗で活躍し、シドニー五輪日本代表選出

渡辺俊介は栃木県に生まれ、大学まで野球を続けていた父の影響で早くから野球を始めます。小学校に入る前からキャッチボールを楽しみ、1年生から野球チームに入りました。主に投手を務めるようになりますが、中々頭角を現せないことから、中学時代にアンダースローへ転向します。そしてその後、父と同じく國學院栃木高校へ進学しましたが、エースで4番の小関竜也(元西武、巨人)に続く2番手投手に甘んじ、甲子園出場も叶いませんでした。

國學院大學時代もエースになることなく過ごしましたが、新日鐵君津へ進むと少しずつ流れが変わります。2000年、当時のエースがフル回転して、都市対抗野球大会予選を勝ち抜きましたが故障を負い、渡辺に本戦の大舞台で投げるチャンスが訪れました。すると先発の柱として全4試合に登板して、チーム4強入りの原動力となり優秀選手賞を手にします。さらにプロ・アマ混成チームのシドニー五輪にも、日本代表として選出されました。

即戦力としてロッテ入団も、2年間プロの厚い壁に遮られて2勝に終わる

2000年ドラフト会議で、千葉ロッテマリーンズから4位指名を受け入団します。前年限りで、先発一角の一人・小宮山悟が移籍し、頼りはエース黒木知宏という状態だったため、渡辺俊介は即戦力投手として期待されました。4月に早くも初登板、初先発というチャンスを得て5回1失点とまずまずの成績を残します。しかし、初勝利は、9月の初完封勝利するまで訪れず、同年は13試合の登板で2勝2敗と戦力になれませんでした。

2年目の2002年、エース黒木が故障離脱し、投手陣の台所事情が苦しいにもかかわらず前年よりも出場機会を減らします。全8試合に先発として登板しましたが、0勝に終わり、大きく期待を裏切りました。

2005年、キャリアハイの15勝をマークし、チームの下克上日本一に貢献

勝負の3年目も開幕に出遅れ、ようやくシーズン初勝利したのは5月末でした。しかし、ついに世界一低いリリースポイントとして知られるアンダースロー投手がプロでも頭角を現します。6月以降は、ミンチー、清水直行に続く先発3番手としてローテーションを守り、初めて規定投球回数をクリアしました。二桁にわずか届かない9勝でしたが、防御率はリーグ7位とプロとしてコツを掴みます。2004年にはチームトップの12勝を挙げるなど完全に先発ローテーション投手として定着しました。

そして2005年キャリアハイの成績で、初めての日本一に大きく貢献します。交流戦では、MVPこそ同僚の小林宏之に譲りましたが、12球団トップの防御率1.73で優勝に貢献しました。シーズントータルでも15勝4敗、防御率2.17、勝率.789というタイトルを取ってもおかしくない成績をマークして、チームの2位躍進に一役買いました。プレーオフでは1位通過のソフトバンクとの死闘を制し、日本シリーズへたどり着きます。そして、自身も第2戦で完封勝利を収めるなど、阪神タイガースに4連勝して日本一に上り詰めました。

国際大会に希少なアンダースロー投手として、日本のWBC連覇に貢献

プロ野球界においても希少なアンダースロー投手は、国際大会でさらに威力を発揮しました。2006年、第1回WBC日本代表に選出されると、1次ラウンド、2次ラウンドともにキーとなる韓国戦の先発投手を任されます。球数制限という通常ないルールに苦しみながらも、4回2/3で1失点、6回無失点とともに好投を見せました。決勝のキューバ戦でも、先発・松坂大輔に続いて2番手投手で登板するという大車輪の活躍で、日本の初代王者獲得に大きく貢献しました。2009年の第2回大会でも代表に選出されると、今度は中継ぎとして韓国戦2試合に登板し、2回・打者8人に対して被安打0と無失点に抑えます。希少なアンダースローはベンチにいるだけでもチームに貢献し、日本は見事な連覇を飾りました。

規定投球回数達成が8年連続で途切れると、若手に出場機会を奪われる

渡辺俊介は入団3年目以降、8年連続で規定投球回数を達成するなど、長きに渡ってロッテ先発投手を務めました。しかし、2005年に突出した成績を残して以降、不安定な数字が続きます。2006年から2年連続一桁勝利に終わり、2008年はチーム2位の13勝と復活を感じさせましたが、同年の防御率は4.17と打線の援護に頼る1年となりました。

2009年も防御率は改善せず、リーグワーストの13敗を喫すると、2011年にはついに規定投球回数に届きません。若手も台頭し、プロ入りが遅かったこともあって年齢から来る衰えを隠せず、2013年にはついに6試合で0勝に終わりました。

37歳でメジャー挑戦するなど野球熱は冷めず、2017年現在もプレー

現役引退が噂されるも、37歳にしてメジャーリーグ挑戦を表明し、2013年12月ボストン・レッドソックスとマイナー契約をかわします。スプリングキャンプで結果を出して、メジャー昇格を目指しましたが、結果が出ずに解雇通告を受けました。しかし、野球の情熱は失せることなく、2014年4月からアメリカ独立リーグ、・アトランティック・リーグ、ランカスターと契約します。同球団でリーグ優勝を経験すると、11月からはベネズエラのウィンターリーグにも参加して、翌年は再びランカスターでプレーしました。

2015年12月からは、かつて所属していた新日鐵君津の後継となる「新日鉄住金かずさマジック」のコーチ兼選手として社会人野球を楽しんでいます。プロで通算87勝をマークし、ロッテ時代は「ミスターサブマリン」と呼ばれた渡辺俊介は、まだ手にしていない都市対抗野球大会優勝に向けて挑戦を続けています。


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