名前 | 小坂誠(コサカマコト) |
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生年月日 | 1973年7月2日 |
国 | 日本 |
出身 | 宮城県山元町牛橋 |
プロフィール | 小3で野球を始める。柴田高時代はショートで、3年夏は県大会ベスト8。
JR東日本東北を経て、1997年ドラフト5位でロッテに入団。オープン戦で打率5割、新人打率首位は元巨人の原以来。同年46盗塁で新人盗塁記録を45年ぶりに更新、パリーグ新人王にも選ばれる。1998年、2000年盗塁王。1999年~2001年にゴールデングラブ賞受賞。2005年、西岡剛の台頭で少し出番が減るも、キャリアハイの打席成績に4度目のゴールデングラブ賞受賞など活躍しチームの日本一に貢献。 2006年からは巨人に移籍。1年目は仁志敏久に代わる二塁手として活躍も2008年退団。2009年からは地元、楽天に移籍。しかし2010年、椎間板ヘルニアを発症し同年現役引退。 2011年からは指導者として、楽天(2011~2013年)、日本ハム(2014~23016年)、巨人(2017年~)とコーチに就任。 通算成績は1,371試合、4,261打数1,069安打、19本塁打、303打点、279盗塁、打率.251。盗塁王2回、新人王、ゴールデングラブ賞4回。柴田高卒、JR東日本出身、右投左打、168センチ、63キロ |
スバ抜けた守備範囲を見たスカウトの執念で、ロッテ入団が決まる
小坂誠は宮城県に生まれ、小学3年生から地元の「山元ビクトリーズ」で野球を始めます。中学時に左打ちに転向し、守備位置は当時から内野手でした。野球の名門・仙台育英のセレクションを受けましたが不合格となり、地元の新設校・柴田高校に進学します。2年でレギュラーを獲得しましたが、とても甲子園に行けるようなチーム力ではなく、3年夏はベスト8止まりでした。
その後、JR東日本東北に進み、社会人で野球を続けます。当初から攻守に目立つ存在ではありませんでしたが、5年間の社会人野球を経験することで小柄ながらも強い体が出来上がりました。さらに金属バットから放たれる打球スピードについていくため守備練習を重ねたことでいつしか守備の名手となります。当時ヤクルトスカウト佐藤孝夫の目に留まり、チームに推薦しましたが低身長のため却下されました。しかし類まれな守備範囲を持つ小阪を埋もれさせたくなく、当時千葉ロッテのGMだった広岡達郎に推薦します。自身も現役時代遊撃手だった広岡は一目見て獲得を決めて、1996年ドラフト5位で指名しました。
遊撃手レギュラーを奪い、新人記録の56盗塁にフル出場で新人王受賞
オープン戦で結果を残した小坂誠は、開幕戦から2番遊撃手としてスタメン出場します。さらに、新人ながら3,4月の月間MVPを奪う活躍を見せて、レギュラーの座を獲得しました。その後も、社会人時代に鍛えた体力がものをいい、チーム唯一の全試合出場を果たします。最終打率は.261と落としましたが、2番としてチーム最多の38犠打を決め、最終戦で西村徳文の持つシーズン最多盗塁記録を抜き去る56盗塁を決めました。
盗塁王は62個を決めた松井稼頭央に奪われましたが、自身のプロ入りのきっかけとなった佐藤孝夫が持っていた新人最多盗塁記録(45個)を大幅に更新し、見事新人王に輝きます。ロッテからの選出は、実に1974年の三井雅晴以来であり、プロ入り1年目に限れば1969年の有藤通世まで遡るという久しぶりの快挙でした。
松井稼頭央とのハイレベルな盗塁王&ゴールデングラブ賞争い
2年目以降もロッテ不動の遊撃手として君臨します。2001年までの5年間、3度のフル出場を達成し、プロ野球史上2人目となる入団から5年連続の30盗塁を達成しました。そして、同じ遊撃手の松井稼頭央(当時西武)とは、高いレベルで賞レースを争います。2年目の1998年、双方43個で盗塁王を分けあうと、1999年は1個差で松井が、2000年は小坂誠が松井に7個差をつけて自身2度目の盗塁王と4年連続で競い合いました。
さらにゴールデングラブ賞でも両者の対決はハイレベルで展開します。1997年から2年連続で松井が受賞すると、1999年からは3年連続で小阪が受賞しました。2002年からは再び松井が2年連続で受賞すると、2004年の川崎宗則を挟んで、2005年は小阪が取り戻すという風に、9年間でお互い4度ずつ栄冠に輝きました。
西岡剛の台頭で出場機会が減るも、2005年は初の日本一に貢献
入団以降、8年連続Bクラスでしたが、2005年初めてリーグで優勝争いを経験します。前年、2期目としてバレンタイン監督が就任し、遊撃手にも新人のライバル西岡剛が頭角を現しました。そしてバレンタインは、西岡、小坂誠、堀幸一の3人を二遊間でローテーションさせるという独特の起用をします。二岡と堀は遊撃手、二塁手でベストナインに選出されるほどの活躍を見せましたが、小阪も118試合に出場して、キャリアハイの打率.283、出塁率.353を残し攻守に活躍しました。同年も26盗塁を記録するなど通算250盗塁も達成し、マリンガン打線の一角を担います。チームは10年ぶりにリーグ2位を確保して勢いに乗ると、クライマックスシリーズ、日本シリーズも制して31年ぶりの日本一に上り詰めました。
晩年は巨人、楽天と2球団を渡り歩くも、怪我が原因で現役引退
アジアシリーズも制しバラ色のオフと思われましたが、2005年12月金銭トレードで読売ジャイアンツへの移籍が決まります。この時点で32歳とまだまだ若い小坂誠でしたが、巨人では内野手レギュラーが固定されており、内野守備・走塁のスペシャリストとして期待されました。しかし、シーズンが開幕すると仁志敏久が極度の打撃不振に陥り、二塁手として多くの試合に出場しました。守備では流石のプレーを連発しましたが、打撃、走塁では戦力になれず、その後は出場機会が減ります。
2008年オフ、巨人コーチ就任要請を断り、地元球団の東北楽天ゴールデンイーグルスへのトレードが決まります。二遊間のレギュラー渡辺直人、高須洋介の控えながら、巨人時代にはなかった100試合出場を達成しました。しかし2010年、開幕前に椎間板ヘルニアを患うと出場機会を激減させ、同年限りでユニフォームを脱ぐことを決断しました。
史上最高といわれた遊撃手守備を、指導者として伝授する毎日
小坂誠は通算14年間の現役生活で、1,069安打、279盗塁を記録しましたが、やはり大きな特徴は史上最高といわれた遊撃手の守備といえます。神クラスといわれた守備は「平成の牛若丸」「小阪ゾーン」など形容する表現も多くありました。尋常ではない守備範囲や捕球してから送球するまでのスピードも速く、ゴールデングラブ賞を4度受賞しています。4.0台だと一流と言われるレンジファクター(アウト寄与率)という守備率を表現する数字がありますが、小阪はただ一人1998年から6年連続で5.0以上をマークしました。
まさに投手陣としてはこの上ないほど頼りになった男は、現役引退後、1年も途切れることなく楽天、日本ハム、巨人のコーチとして腕を振るっています。守備はもちろんのこと、盗塁王2度の走塁術、通算267犠打を決めた小技など、今度は首脳陣から頼られる男になっています。