名前高木豊(タカギユタカ)
生年月日1958年10月22日
日本
出身山口県防府市
プロフィール大学3年生のとき、日米大学野球選手権の全日本メンバーに選ばれ、1981年ドラフト3位で内野手として大洋(現・横浜)入団。

1984年には、56盗塁で盗塁王に。1985年、1990年、1991年ベストナインに選ばれた。1993年1月年俸査定で球団提示額を不服とし日本球界で3人目の調停を申請、同年2月5.5%アップの9840万円で決着。1994年日ハムに移籍。同年引退。

2001年横浜守備走塁コーチに就任。同年10月退団。タレント活動を開始し、テレビドラマ「ぽっかぽっか2」に出演。2004年アテネ五輪日本代表コーチ就任。2012年、横浜DeNAベイスターズヘッドコーチに就任、2013年退団。

通算成績は1,628試合、5,782打数1,716安打、88本塁打、545打点、321盗塁、打率.297。盗塁王1回、ベストナイン3回、ダイヤモンドグラブ賞1回。多々良学園高校卒、中央大学卒、右投左打、173cm、80kg

中央大学時代、歴代2位の115安打を記録し、大洋ホエールズに入団

高木豊は、山口県で生を受けましたが、父が転勤族だったため少年時代は転校を繰り返しました。当時はすでに野球を始めていて、多々良学園高校(山口)では3年間集中する環境が整えられます。入学と同時にレギュラーを奪い、3番エースとして甲子園出場を目指しました。しかし、野球強豪校ではなかったこともあって夢は実現しませんでした。

卒業後に中央大学へ進学すると、東都大学リーグで輝きを放ちます。入学早々スタメンで起用されると、1年春に打率.340を記録して安打製造機と化しました。大学4年間で、東都リーグ歴代2位の115安打を記録し、チームとしては5年ぶり、自身初めての優勝も経験します。全日本大学野球選手権大会でも優勝するなど大きく名を馳せると、日米大学野球の代表にも選出されてプロスカウトの目に留まります。こうして1980年ドラフト3位で横浜大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)に指名されて入団しました。

2年目に代打で頭角を現すと、二塁手レギュラーを脅かす活躍

高木豊が守る二塁手には、前年ベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞に輝いたベテランの基満男がいたため、キャンプではファーム中心の生活が続きます。そして二軍監督の須藤豊に徹底的に鍛えられました。シーズンが始まると、主に代打や代走で一軍試合に起用されて88試合の出場経験を積みます。当時は本来の二塁手ではなく、三塁手を多く務めました。

2年目には外野手としての出場も多くなり、打撃でも頭角を現し始めます。代打としてリーグトップの打率.379を残すと、前年の倍近くの打席に立ち、正二塁手の基とほぼ変わらない打率.260を記録しました。

レギュラーに定着し、スーパーカートリオの一角としても活躍

プロ3年目の1983年、高木豊は二塁手のレギュラーを奪います。スイッチヒッターへの挑戦は失敗しましたが、125試合に出場してリーグ6位の打率.314をマークしました。同年は1番打者や2番打者として、27盗塁に20犠打と役割を果たします。翌年もギリギリながら打率3割を達成すると、56盗塁で盗塁王を獲得しました。しかし、同年のチームは夏場以降に負けが込み、最下位に沈んだことから、関根潤三監督は退任となりました。

1985年、新監督に就任した近藤貞雄は、打開策の一つとして足を売りにしたチーム作りを進めます。1番屋鋪要、2番加藤博一、3番高木と俊足打者3人を並べ、塁に出たらとにかく走らせました。すると屋敷が58盗塁で盗塁王、加藤が48盗塁、高木も42盗塁と3人で148盗塁を記録し、チーム188盗塁もリーグトップとなります。3人揃って、リーグ最多の5本の三塁打を記録するなど、「スーパーカートリオ」として恐れられました。高木は同年から遊撃手にコンバートされると、6打数連続ヒット、11打席連続出塁を記録するなど打撃も好調で3年連続打率3割を達成しました。

打率3割8度、20盗塁9度など、チーム随一の安定感を見せる

チームの低迷は変わりませんでしたが、高木豊自身の打撃も高いレベルで安定していました。1992年までに打率3割を8度記録し(球団記録)、打率リーグトップ10に7度も顔を出します。1990年には打率.323で同僚のパチョレックに続くリーグ2位、1991年は打率.333でリーグ3位と首位打者にはあと一歩届きませんでした。盗塁も3年目の1983年から10年連続二桁数を記録し、20個以上も実に9度達成しています。ただし成功率は高くなく、4度リーグワースト盗塁死を記録し、通算321盗塁に対して盗塁死も178個ありました。ダイヤモンドグラブ賞は、1983年に二塁手で獲得した1度だけでしたが、安定した守備力を持っていました。

まさに走攻守でチームに貢献しベストナイン3度受賞の高木は、1992年オフの契約更改で球団と大きく揉めてしまいます。3年連続打率3割を達成したにも関わらず、球団はダウン提示し、それを不服として年俸調停を申請しました。その結果、球団の提示額よりもわずかながら上積みを獲得しましたが、後味の悪さが残りました。

急転直下の解雇通告を受けると、新天地でも輝けず現役引退を表明

1993年、主に一塁手として出場するも、4年連続打率3割を逃す打率.268とかなり数字を落としました。それでも全試合に出場した高木豊でしたが、同年オフまさかの解雇通告を受けます。35歳とベテランの域に達していましたが、突然のクビ宣告に戸惑いました。チームは若返りを理由に、高木だけではなく屋敷要や大門和彦、山崎賢一ら主力選手6人を一気に解雇します。その合計金額が、同タイミングでFA宣言していた駒田徳広(当時巨人)の獲得資金とほぼ同じだったことから、その資金捻出のための解雇と噂されました。

安定した打撃の持ち主だった高木は、日本ハムファイターズへの移籍が決まります。しかし、気持ちが切れていたのか、プロ入り後ワーストの65試合出場に留まり、打率.249と低迷し同年限りでユニフォームを脱ぎました。

引退後は解説者メインで過ごし、3人の息子は全員Jリーガーに成長

引退後は、長らくの間、野球解説者として過ごします。2001年に古巣横浜の守備走塁コーチに就任しましたが、1年で辞任しました。その後、2004年のアテネ五輪日本代表コーチ、2012年から2年間、横浜DeNAベイスターズのヘッドコーチを務めました。現在は再び、野球解説者としてテレビでの露出を増やしています。

また高木豊の3人の息子たちが、全員プロサッカー選手であることも有名です。3人とも東京ヴェルディ1969の下部組織出身で、ユース時代から揃って年代別日本代表に選出されるほどの逸材です。実は、高木が卒業した多々良学園高校も全国高等学校サッカー選手権大会の常連校として知られています。


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