名前 | 辻発彦(ツジハツヒコ) |
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生年月日 | 1958年10月24日 |
国 | 日本 |
出身 | 佐賀県 |
プロフィール | 社会人野球の日通を経て、1984年ドラフト2位指名で西武入り。
1986年には、打率.279、15本塁打を記録。俊足、好守で知られ、1986年、1988年から7年連続でゴールデングラブ賞を受賞。1996年自由契約となりヤクルトに移籍。セ・リーグ最年長プレーヤー。1999年シーズン終了後、引退。 二軍守備走塁コーチとなる。2001年10月横浜一軍守備走塁コーチに就任。2006年第1回WBCコーチとして日本優勝に貢献。2007年中日二軍監督に就任し、いきなりファーム日本一達成。2010年から一軍コーチ(~2011年)。2014年から再び中日コーチ就任(~2014年)。2017年からは、22年ぶりに古巣西武へ復帰して一軍監督に就任。 通算成績は1,562試合、5,187打数1,462安打、56本塁打、510打点、242盗塁、打率.282。首位打者1回、最高出塁率1回、ゴールデングラブ賞8回、ベストナイン5回、報知プロスポーツ大賞。佐賀東高卒、右投右打、182cm、81kg |
日本通運時代に根本陸夫に才能を見出され、西武2位指名で入団
辻発彦は、佐賀県生まれだけに、当時九州を本拠地としていた西鉄ライオンズのファンで野球観戦にもよく出かけていました。自身も野球をしていましたが、低身長をコンプレックスに思いながら、佐賀東高校へ進学します。歴史が浅く強豪ではないため甲子園は夢に終わりましたが、熱心な練習を続けると高校時代に一気に身長が20センチ近くも伸びていました。
卒業後は日本通運に就職し、社会人野球を続けます。高校時代と比べ高いレベルに驚愕しながらも続けていくうちに、チームの中軸4番を任されるようになりました。そして、1983年ドラフト会議を迎えると、予想だにしていなかった西武ライオンズから2位指名という高評価を受けます。当時西武フロントの中心だった根本陸夫が辻の素質を見抜き、上位での指名につながりました。
西武ライオンズの二塁手レギュラーを奪い、自身初の日本一を経験
当時の西武ライオンズは、前年まで2年連続日本一を達成し、かつての低迷期を抜け常勝チームへと変貌を遂げていました。社会人時代に内野手だった辻発彦は、広岡達郎監督にキャンプで猛特訓を受け、さらに守備力をアップさせます。1年目から一軍ゲームでも起用されましたが、内野陣はほぼレギュラーが固定されており、41試合の出場に留まりました。
1984年オフ、二塁手レギュラー山崎裕之が引退したため、その後釜を狙います。練習量と自身のセンスによって期待に応え、1985年シーズンでは110試合に出場とほぼレギュラーを掴みました。チームもリーグ優勝を実現しましたが、日本シリーズでは猛打の阪神タイガースの前に敗れます。しかし、プロ3年目の1986年、全試合に二塁手として出場し、打率もリーグ13位の.296とチームの大きな戦力となりました。同年は広島東洋カープを下して初の日本一を経験し、オフにはゴールデングラブ賞、ベストナインのダブル受賞と完全にプロ野球選手として一皮向けました。
巨人との日本シリーズで披露した好走塁は、今なお伝説として残る
1987年は開幕直前に骨折を負い、復帰したのが夏場だったため51試合の出場に留まります。しかし同年の日本シリーズにおいて、辻発彦の代名詞となった伝説の走塁でチームを日本一に導きました。
KK(桑田真澄・清原和博)対決として戦前から注目された巨人とのシリーズでしたが、西武首脳陣は巨人の守備陣の甘さを研究しており、3勝2敗と王手をかけた第6戦で一気に炸裂させます。2回にランナー2塁からの外野フライを犠牲フライとして得点し、2-1とリードした8回は辻が走塁で魅せました。2死から自らヒットを打って一塁へ出塁すると、続く3番秋山幸二のセンター前ヒットで一気に二塁三塁を蹴ってホームまで返って来たのです。守備陣の一瞬の隙をついた走塁でしたが、計算された余裕のホームインであり、優位に立った西武はそのまま日本一となりました。
不動の二塁手として西武黄金時代を支え、6度の日本一を達成
1988年からはチームの選手会長を務め、不動の二塁手として同年から7年連続でゴールデングラブ賞を受賞します。1989年までは9番打者など下位を打つことが多い辻発彦でしたが、1990年からは1番打者として打線を牽引しました。投打にバランスが整ったチームは異常なほど強く、1989年に0.5ゲーム差で3位に沈んだ年以外は、リーグ優勝、日本一に輝くというまさに黄金時代を迎えます。1990年に再び巨人と戦った日本シリーズでは、第1戦からの4連勝でまさに木っ端微塵に叩きのめしました。巨人が誇る先発3本柱から、脅威の助っ人デストラーデが3戦連続初回に打点をあげて主導権を握りましたが、その3戦とも初回に出塁しホームベースを踏んだのは辻でした。
1993年には、打率.319で首位打者に輝き、5度目のベストナインに選出されるなど球界最高の二塁手の名をほしいままにしていました。しかし、1995年、打率.238と低迷し、衰えが見えると、若返りを図る目的でまさかの戦力外通告を宣告されます。当時37歳のベテランは、現役続行を目指し自由契約となり新たな移籍先を探すことになりました。
ヤクルトへ移籍し、自身7度目の日本一も経験して現役引退
1996年からは、野村克也監督が率いるヤクルトスワローズのユニフォームを着ました。順調にキャンプを過ごすもオープン戦で骨折を負い、自身の開幕は5月にずれ込みます。しかしそこから安打を量産し、首位打者争いに参戦しました。夏場以降に数字を落としましたが、キャリアハイの打率.333でリーグ2位と意地の復活を見せます。
その後は、年々、出場機会が減少し、代打の切り札的存在へと立ち位置が変わりました。1997年には、チームの精神的支柱として古巣西武との日本シリーズにも勝利し、セ・リーグでも日本一を味わいます。そして1999年、キャリアワーストの17試合出場に終わり、通算16年の現役生活に別れを告げました。
22年ぶりに監督として古巣西武に復帰し、走る野球の復活を目指す
現役引退後は、即指導者の道をスタートさせます。途中2度の充電期間がありながらも、ヤクルト、横浜、中日と3球団を渡り歩き13年もの間、コーチや二軍監督を務めました。2006年には第1回WBC日本代表コーチとしても働いています。現役時代から含めて、広岡達朗、森祇晶、野村克也、王貞治、落合博満など名将といわれた監督に仕え、様々なものを吸収しました。
そして辻発彦は、2017年から22年ぶりに古巣西武のユニフォームに袖を通し一軍監督に着任しました。自身が在籍時は、プロ野球最長の25年連続Aクラス入りしていましたが、2014年から3年連続でBクラスに沈んでいます。2016年は両リーグワーストの101失策に、投手陣も落ち込みも続いています。そこで、かつての守りの野球を再現し、自身の代名詞にもなっている走塁の重要性を説くことからチーム改革を始めました。あらゆる指揮官に共通する、基本練習の重要性を伝えながら、古豪復活を目指しています。