名前 | 鈴木健(スズキケン) |
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生年月日 | 1970年1月13日 |
国 | 日本 |
出身 | 埼玉県 |
プロフィール | 小学1年生の頃から野球が好きで、南越谷イーグルスに入部。中学時代は越谷シニアで関東大会に出場した経験もある。1986年浦和学院高校2年生の時に、関東地方大会で3連続ホームランを記録。同年夏の全国大会に出場し、優勝は逸したが、“左の清原(当時西武)”として注目を集める。
プロ入りを拒否していたが、西武がドラフト1位で指名し、1988年入団。1990年からイースタンリーグで2年連続首位を獲得。のち一軍入り。1997年最高出塁率達成。2001年6月対日ハム戦でプロ通算1000本安打を達成。 2002年西武から戦力外通告を受け、2003年からヤクルトに移籍。同年は三塁手レギュラーとして活躍し、カムバック賞に2度目のベストナインを受賞。2004年もレギュラーを務めるも、2005年の怪我が原因で、2007年現役引退。 通算成績は1,686試合、5,201打数1,446安打、189本塁打、797打点、15盗塁、打率.278。最高出塁率1回、ベストナイン2回、カムバック賞。浦和学院高卒、187センチ、90キロ。右投左打 |
甲子園で「左の清原」と称されるなど、高校通算83本塁打を放つ
鈴木健は埼玉県で生まれ、野球好きだった父の影響で幼い頃から野球と触れ合います。小学校に入ると、早くも「南越谷イーグルス」に入部し本格的に野球を始めました。中学時代に頭角を現すと、甲子園常連校から多くのオファーを受けます。しかし中学時代の仲間たちと一緒に野球がしたいという思いが強く、新設校だった浦和学院に進学しました。
2年生になると、夏の予選大会では3打席連続本塁打するなど打線の中核に座り、同じく2年生エース谷口英規が中心となって、悲願の甲子園初出場を決めます。本戦でも、次々と勝ち上がり、初出場にしてベスト4を成し遂げました。その豪打から前年に全国優勝したPL学園・清原和博の再来かと噂され、左の清原とも称されます。3年夏も甲子園に帰還しましたが、初戦で伊良部秀輝を擁する尽誠学園と対戦し2-5で敗れました。それでも当時日本最多記録の高校通算83本塁打を放った鈴木は、プロスカウトの注目を集めました。
入団当初は、西武黄金時代であり、厚いレギュラーの壁に遮られる
早稲田大学進学を示唆したため、指名は見送られると思われましたが、地元西武ライオンズが強行で単独1位指名しました。交渉の結果、鈴木健はプロ行きを決断し西武に入団が決まります。1年目は体づくりに専念すると、2年目には始めて一軍に昇格しプロ初安打も放ちました。
しかし当時の西武は、1986年から日本シリーズ3連覇、さらに1990年からも同じく日本シリーズ3連覇と黄金時代真っ只中にありました。三塁手専門の鈴木としては、三塁手、一塁手、もしくは指名打者でしか出場できません。しかし、清原和博(一塁)、石毛宏典(三塁)、デストラーデ(指名打者)といずれもレギュラーが固定されており、中軸でもあったため全く割ってはいる隙がありませんでした。そのため二軍でのプレーが多くなり、1990年から2年連続イースタンリーグで首位打者を奪うも、この2年間の一軍試合出場は合計で50試合を下回ります。この当時は、二軍の帝王と呼ばれていましたが虎視眈々とチャンスを待ちました。
黄金期を知るメンバーが不在となり、8年目にしてレギュラー奪取
1992年、守備位置に就いたのは22試合に留まりましたが、代打として一軍起用が多くなります。同年は69試合に出場し、打率.261、5本塁打と初めてチームの戦力となりました。そしてヤクルトとの日本シリーズでも、第6戦で一時逆転となる代打3ランを放つなど、遅まきながら頭角を現します。
1993年からは完全に一軍定着し、デストラーデの不在によって空いた指名打者として初めて100試合以上に出場します。規定打席には到達しませんでしたが、打率.270、13本塁打、51打点を記録しました。1994年も、後半は5番打者に定着して打率.350、12本塁打と高打率を残します。そして同年オフの石毛宏典のダイエー移籍に伴い、1995年からプロ8年目にして三塁手レギュラーとなりました。キャリアハイの124試合に出場し、初めて規定打席に到達します。打率は前年から大きく落として、.252に終わりましたが、12本塁打、42打点と長打力はキープしました。
清原和博に代わる新4番として定着し、チーム連覇に貢献
1996年、チームは序盤からBクラスをさまよい、優勝争いに絡めないまま2年連続の3位に終わりました。しかし、チームの調子とは真逆に、鈴木健は水を得た魚のように一軍で躍動します。同年は初めて規定打席に到達し、チームトップでリーグ4位の打率.302、さらに21本塁打、60打点と中軸として役割を果たしました。そして人材の流出は止まらず、同年オフには4番清原和博もFAでチームを去りました。
1997年、かつての黄金期を支えた選手は正捕手の伊東勤ただ一人となり、西武は衰退の一途をたどるものと思われました。しかし、鈴木は新4番としてキャリアハイの133試合に出場し、打率.312、19本塁打、94打点と打ちまくります。終盤の8月には月間MVPに輝き、チームを3年ぶりのリーグ優勝に導く救世主となりました。選球眼も抜群でリーグトップの90四球を選び、.431で最高出塁率、さらにはベストナインと最高のシーズンを送ります。翌年も、初のフル出場を果たし、22本塁打、65打点とチーム連覇の立役者となりました。
西武からヤクルトへ移籍すると、カムバック賞受賞と意地を見せる
しかし、鈴木健の好調は長く続きませんでした。1999年は、133試合に出場して13本塁打、81打点と存在感を示しましたが、2000年、2001年はともに打率.250を割り、50打点前後と中軸としては物足りない数字に終わります。2002年に、新監督に伊原春樹が着任すると、レギュラーを奪われて65試合出場に留まりました。
そして32歳ながら、同年オフには無情の戦力外通告を受けてしまいます。現役続行を望む鈴木は、ヤクルトと契約し初めてセ・リーグへと移籍しました。当初は内野手の控えおよび代打としての出場のみとみられましたが、レギュラー岩村明憲の故障離脱で一転し、三塁手に定着します。打率.317、20本塁打、95打点とほぼキャリアハイの数字を残し、打率、打点はラミレスに次ぐチーム2位でした。カムバック賞、そして2度目のベストナインと華麗に返り咲くと、岩村が復帰した2004年も、一塁手としてヤクルトレギュラーを務めます。5番もしくは6番打者として、打率.289、15本塁打、65打点と2年連続で好成績を残しました。
しかし35歳で迎えた2005年シーズン、怪我で二軍生活が長くなり、レギュラーを失うと任された代打でも結果を残せなくなります。2006年からは、34試合、26試合と出場機会が減り、2007年現役引退を表明しました。西武黄金期にぶつかりながらも、選手時代後半にレギュラーを奪い、通算19年選手生活を続けました。引退後は、解説者を務める傍ら、友人であるプロゴルファー小山内護のキャディーとしても活躍しています。