名前福本豊(フクモトユタカ)
生年月日1947年11月7日
日本
出身大阪府大阪市
プロフィール大鉄高校を経て松下電器に入り、1967年ドラフト7位で阪急に入団。

翌1970〜1982年13年連続パ・リーグの盗塁王。この間、1972年には106盗塁の日本記録を樹立、MVPを獲得し、また1983年6月には、盗塁世界一(939)の記録を達成した。同年通算2000本安打も記録。62年にはスパイクがアメリカの野球殿堂入りした。盗塁、三塁打と2つの通算日本記録を持つ。

1988年引退し、オリックスコーチ、二軍監督。1998年阪神打撃コーチに就任。1999年シーズン終了後、退任。2002年野球殿堂入り。

通算成績は2,401試合、8,745打数2,543安打、208本塁打、884打点、1,065盗塁、打率.291。盗塁王13回、最多安打4回、MVP1回、ベストナイン10回、ゴールデングラブ賞12回。大鉄高卒、左投左打、168cm、68kg

小柄な体格もあって、プロ入りはドラフト7位とまさかの低評価

福本豊は、大阪に生まれ、幼少の頃から快足ぶりは群を抜いていました。小学3年生からソフトボールを始め、父とプロ野球観戦へ行くにつれて野球熱は高まっていきます。布施市立第三中学、大鉄高校でも野球部に入り甲子園を目指しました。野球部員は多く、1年生が唯一バッティング練習できる早朝練習を繰り返し、1年秋から1番センターの定位置を手に入れます。そして、3年夏の府大会予選7試合で11盗塁と走りまくり、大鉄高校初の甲子園出場を決めました。

しかし、初戦の秋田高校戦でサヨナラ負けという屈辱を味わい、卒業後は松下電器へ進みました。ここでも即外野手レギュラーを奪い俊足を武器に活躍していきます。3年目の1968年には、同僚の加藤秀司らと富士製鉄広畑の補強選手に選出されると、一気にチームを都市対抗野球大会優勝に導きました。この大会でベストナインのタイトルを手にしましたが、小柄であったこともあって、プロからの指名がかかる選手ではありません。しかし、加藤目当てに訪れたスカウトの前で、好プレーを連発したことから、1968年ドラフトでは阪急ブレーブスから7位指名を受けました。

花の44年組で最も早く頭角を現し、3年目には日本記録の106盗塁

1968年ドラフトの同期入団は、1位山田久志、2位加藤秀司と福本豊も含めて後に黄金時代を牽引したメンバーが多く、「花の(昭和)44年組」と呼ばれました。下位指名の福本は、当初全く期待されていませんでしたが、二人を差し置いて同年の開幕戦から代走として出場します。38試合の出場で4盗塁に終わりましたが、オフに陸上選手の臨時コーチに指導を受けたことが大きなきっかけとなります。1970年から1番センターのレギュラーに定着すると、75盗塁で初の盗塁王を獲得し、以後同タイトルを13年連続で他の誰にも渡しませんでした。

1972年には、現在でも日本記録のシーズン106盗塁、初の打率3割達成、さらにはシーズンMVPも受賞し、その後選出の常連となるベストナイン、ゴールデングラブ賞も初受賞します。阪急ブレーブスは、1963年に西本幸雄が監督に着任以降、徐々にチーム力をあげて、1967年の初優勝からリーグ3連覇を飾っていました。しかし、この福本という最強の1番打者が加わったチームでも、V9時代の巨人には全く叶わず、実に5度対決して全敗という屈辱を味わいました。

リードオフマンとして、阪急黄金時代を告げる日本シリーズ3連覇

その後も、福本豊は投手の癖を徹底的に研究し、毎シーズン走りまくりました。その足を何とか防ごうと、当時南海ホークスの選手兼任監督の野村克也は、投手のクイックモーションを編み出します。現在の野球界では欠かせないものですが、まさに福本封じのために考案されました。

1974年から上田利治が監督に就任すると、阪急の歴史がさらに変わります。1975年、3年ぶりにパ・リーグを制し、球団創設初優勝を飾った広島東洋カープとの日本シリーズに挑みました。福本は技能賞に選出される活躍で、4勝2分と球団初の日本一を達成します。そして1976年は、福本が盗塁王、山田久志が最多勝、加藤秀司が打点王と、花の44年組3人全員がタイトルホルダーとなり、日本シリーズで6度目の巨人との対決を迎えました。

3勝3敗で迎えた第7戦、足立光宏が完投勝利を収め、ついに宿敵を下します。福本は、得意の足は封じられましたが、全7試合で安打を放ち6打点と大暴れし、MVPに輝きました。1977年の日本シリーズも2年連続で巨人との対戦となりましたが、山田が2勝1セーブの活躍でMVPを奪い、福本も4盗塁と持ち味を発揮して優秀選手に選ばれます。かつてない4勝1敗という圧勝で巨人を退け、まさに黄金時代を象徴する日本シリーズ3連覇を達成しました。

一時は盗塁世界記録も更新し、生涯1,065盗塁という金字塔

福本豊は大きな怪我にも見舞われることなく、毎年フルに近く試合に出場し、当然のように盗塁を積み重ねていきます。そして35歳で迎えた1983年6月3日、通算939盗塁を記録し、当時ルー・ブロックが所持していたメジャーリーグ記録を上回りました。翌年には通算1000盗塁という金字塔を打ち立て、最終的には記録は1,065まで伸びました。

後に、リッキー・ヘンダーソンによって福本の記録は破られましたが、日本プロ野球界において、王貞治の868本塁打、金田正一の400勝とともに、福本の1,065盗塁はアンタッチャブルレコードとなっています。また1983年には、国民栄誉賞を打診されましたが、それを拒否したところも福本らしいエピソードです。

世界の盗塁王の選手生活幕切れは、前代未聞の言い間違い

35歳で迎えた1983年シーズンから4年連続フル出場をしていた福本豊ですが、1987年の守備で右肩を脱臼しました。この怪我が原因でスタメン出場が減り、1988年はレギュラー獲得以降ワーストの92試合出場で盗塁数もわずか3と同じくキャリアワーストに終わります。同年は同期の山田久志が引退を表明しており、その引退式で上田利治監督が誤って、山田と福本がともに引退すると口走ってしまいました。大騒動に発展し、まだ現役を続けるつもりでしたが、そのまま40歳で引退を決意します。

いともあっけなくプロ生活に終止符が打たれましたが、残した記録は素晴らしいものばかりです。盗塁はもちろんのこと、外野手としてベストナイン10回、ゴールデングラブ賞12回(歴代最多)、さらには17年連続規定打席到達、シーズン全試合出場8度もパ・リーグタイ記録です。名球会入り条件の通算2000本安打も余裕でクリアする2,543安打(2016年末時点で歴代5位)とまさに記録の宝庫です。

引退後は解説者として活躍し、川藤幸三とともに関西で絶大な人気

現役引退後は、古巣オリックスの打撃コーチや二軍監督を歴任しました。その後、1998年からは阪神のコーチも2年務めましたが、それ以降は臨時コーチなど務めるも、ユニフォームから遠ざかっています。しかし、野球解説者としてその独特な喋りは関西方面で人気を博しています。2002年には、現役時代の功績が称えられ野球殿堂入りを果たしました。


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