名前山口高志(ヤマグチタカシ)
生年月日1950年5月15日
日本
出身兵庫県
プロフィール松下電器を経て、1975年阪急(現・オリックス)入り。

新人王、セーブ王をとる。同年の日本シリーズ(対広島戦)では6試合中、5試合に登板。1979年は腰、1980年は左アキレスけんを痛め、スランプ状態が続き、1982年で現役引退。二軍投手コーチを経て、1989年一軍投手コーチ。1998年シーズン終了後、フロント入り。

2003年から阪神コーチに就任し、藤川球児を剛速球投手として再生させる。2016年からは母校・関西大学のコーチに就任。

通算成績は195試合、50勝43敗44S、防御率3.18、787回0/3、600奪三振。最優秀救援投手1回、新人王。関西大学卒、右投右打、169cm、73kg

村山実2世と呼ばれ、アマ球界で無双ぶりを発揮してプロ入り

山口高志は兵庫県に生まれると、幼少期から3歳年上の兄とキャッチボールをして遊んでいました。中学から野球部に所属し、神港高等学校に進学します。当時から小柄でも投手を務めていましたが、高木太三郎監督から後に史上最速と言われた投球フォームを叩き込まれました。するとみるみるうちに才能を開花させ、3年時は春夏連続でチームを甲子園出場に導きます。しかし1勝しかできず、卒業後は関西大学へ進学しました。

大学時代は、通算46勝の最多勝含め、関西学生野球連盟で6個の歴代記録を持つほどの圧巻のピッチングを続け、大学OBの大投手「村山実2世」と呼ばれるようになります。日米大学野球でもアメリカ代表チームをきりきり舞いさせてMVPを受賞し、4年時の全日本大学野球選手権でも、16年ぶりの優勝をもたらしました。

当然プロ注目の的となりましたが、低身長がコンプレックスとなりプロ拒否して松下電器産業へ進みます。1972年ドラフト会議では、ヤクルトアトムズが強行指名しましたが、頑として首を縦に振りませんでした。実業団でもその実力は突出しており、都市対抗にも2年連続で出場します。さらに1974年には、新日鐵堺の補強選手として小野賞を獲得すると、レベルの高い場所でのプレーを望み、満を持してプロ表明しました。そして同年ドラフト会議において、阪急ブレーブスから1位指名を受け、24歳でプロのユニフォームに袖を通しました。

速球一本で、新人王に日本シリーズMVPと圧巻のプロスタート

阪急入団後、自身のカーブがプロでは通用しないことを悟り、投球のほとんどでストレートを投じるようになります。初先発で完投勝利をあげると、無尽蔵のスタミナを武器に7勝5敗をマークして前期の胴上げ投手となりました。夏場に調子を落とし、通年では12勝13敗1セーブ、防御率2.93と負け越したものの新人王に輝きます。さらに後期優勝の近鉄とのプレーオフでも胴上げ投手となり、続く日本シリーズでも圧巻の投球を見せました。

第1戦で先発の足立充宏が8回につかまると、第2戦先発予定の山口高志を投入します。そこから、延長11回まで投げきり、引き分けに持ち込みました。第3戦では157球を投げて完投勝利を収めると、第4戦も中1日でリリーフ登板し、延長13回引き分けに持ち込みます。2勝2分けでリードした阪急は、第5戦、第6戦でもリリーフで山口を投入し2セーブを上げます。こうして全6試合中5試合に登板し、398球を投じて1勝2セーブをマークした山口は文句なしでMVPに輝きました。

先発、リリーフにフル回転し、阪急の3年連続日本一に貢献

1976年からは、徐々にリリーフ登板の割合が増えていきます。同年は山田久志が、最多勝、最優秀防御率、最高勝率の投手3冠に輝くと、山口高志も10勝9セーブと活躍し、阪急は前期後期をともに制する完全優勝を成し遂げました。そして過去5度も苦渋を飲まされた巨人との日本シリーズに挑みます。

当時の上田利治監督は、前年同様キーマン山口を勝負どころで起用しました。第1戦では6回から同点の場面でリリーフ登板させると、初めて見る快速球に巨人打線が沈黙し、山口は勝利投手となります。第2戦も終盤に登場してセーブを上げました。第3戦は山田が完投して3連勝と、宿敵を下しての日本一まであと1勝に迫りました。しかし、そこから巨人の反撃にあい、第4戦のリリーフ、第6戦の先発ではともに山口が打たれて対戦成績は3勝3敗のタイとなります。しかし、第7戦はベテラン足立光宏が完投勝利し、ついに初めて巨人を破っての日本一を達成しました。

1977年もさらにリリーフに比重を置くも、規定投球回数をクリアして10勝12敗11セーブと阪急のリーグ3連覇に貢献します。しかし、終盤調子を落とし日本シリーズでは、1試合の登板に留まりました。それでもエース山田が2勝1セーブの活躍を見せ、巨人を破り、阪急黄金時代を印象付ける日本シリーズ3連覇を達成しました。

腰の怪我が命取りとなり快速球が失われると、阪急黄金時代も終焉

プロ4年目の1978年、山口高志は完全にリリーフに専念します。13勝4敗14セーブと敗戦数が初めて一桁となり、最優秀救援投手のタイトルを奪いました。山口含めて二桁勝利者が5名も輩出され、阪急は一昨年に続いて、前期後期優勝の完全優勝でリーグ4連覇を飾ります。日本シリーズ4連覇を賭けて挑むはずが、大きく歯車が狂い始めます。シリーズ前に腰を故障すると、3戦目からは登録抹消を余儀なくされ、チームもヤクルトに3勝4敗と敗れました。

そして、その後故障は癒えたものの、投球に違和感が残りかつてのスピードボールを投げられなくなります。1979年は二軍降格も経験し、16試合登板と大きく出場機会を減らしました。さらに翌年にはアキレス腱を痛め、マウンドに上がることすらできなくなります。引退を賭けて望んだ1982年も球威は戻らず、同年で現役引退を決意しました。チームも山口が不在となった日本シリーズ以降、リーグ優勝からも遠ざかり、阪急黄金時代は山口の快速球とともにあったことが改めて浮き彫りとなりました。

史上最速の豪速球投手を議論するときには、必ず名前が挙がる

実働わずか4年だった山口高志でしたが、プロ野球界に残した印象は相当なものでした。当時はスピードガンがない時代でしたが、日本プロ野球史上最速の投手は誰かという問いに対しては、必ず山口の名前が挙がります。同じ投手の立場である江夏豊や、実際に対戦した野村克也や、さかのぼると日米大学野球で来日したメジャーの卵たちでも山口を推す声があるほどです。

引退後は2チームで長期間コーチを務め、藤川球児を名投手に育成

太く短いプロ野球人生を終えると、即指導者へ転身します。実に1983年から1998年までの間、古巣球団のコーチを務めました。特にオリックスとして初優勝した1995年からの2年間は、磐石なリリーフ陣を形成します。その後スカウトを務めた後、2003年からは阪神タイガースのコーチに転身し、特に藤川球児を剛速球投手として再生させたことは有名です。阪神でも長期間コーチとして務めましたが、2016年からは母校・関西大学でも指導しています。

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