名前門田博光(カドタヒロミツ)
生年月日1948年2月26日
日本
出身奈良県
プロフィール天理高校からクラレ岡山を経て、1970年ドラフト2位で南海入団。

登録は外野手だが、指名打者として活躍。1971年打点王、1981、1983年には本塁打王を獲得。1986年10月史上10人目の通算400本塁打を達成、1987年8月に名球会入りを果たした。1988年には満40歳を迎えたが、4番打者として活躍、本塁打王(40歳で44本は世界記録)と打点王の2冠を獲得した。

シーズン終了後オリックスに移籍、3人目の1億円プレイヤーとなる。1990年シーズン終了後ダイエーに戻る。1991年550本塁打(球界3人目)、2500安打(史上6位)、1992年1677打点(史上3位)を達成。同年引退。2006年野球殿堂入り。

通算成績は2,571試合、8,868打数2,566安打、567本塁打、1,678打点、51盗塁、打率.289。本塁打王3回、打点王2回、最高出塁率3回、MVP1回、正力松太郎賞1回、ベストナイン7回、カムバック賞、大阪府知事賞、小野田市栄光賞、本格こだわり賞大賞。天理高卒、左投左打、169cm、81kg

天理高校時代に甲子園経験し、2年連続ドラフト指名を受けてプロ入団

門田博光は、山口県に生まれ、父の仕事の関係で奈良へ移り住みます。五条中学時代に野球を始め、卒業後は名門・天理高校に進学しました。自身は中堅手レギュラーとして4番を打ち、同級生エース・外山義明とともに甲子園を目指します。2年時は決勝で敗れましたが、3年最後の夏には雪辱を晴らし、見事甲子園に出場しました。しかし初戦に逆転で敗れ、しかも高校時代は本塁打を1本も打たずして終わりました。

卒業後は、外山とともにクラレ岡山に進み、4年連続で都市対抗野球大会に出場します。1968年には、阪急ブレーブスからドラフト12名指名を受けましたが、それを拒否し、1年後のドラフトで南海ホークス2位指名を受けて入団しました。

2年目には外野手レギュラーを奪い、俊足巧打の中距離打者として定着

ルーキーとはいえ、社会人野球で経験豊富だった門田博光は、島野育夫と外野手レギュラーを争い、79試合に出場します。そして2年目には、3番右翼手に定着し、チームトップの打率.300に、31本塁打、120打点で打点王にも輝きました。さらに本塁打を上積みしたい門田でしたが、4番で選手兼任監督の野村克也からは、大降りを禁止されます。指示通り中距離打者に徹すると1973年には見事リーグ優勝に貢献しました。

その後も、野村が4番、監督に君臨した1977年までは打率3割を5度マークするなど、しっかりと自分の役割を全うします。しかし同年オフに野村監督が解任されると、翌年から広瀬叔功が監督に就任し4番を任されました。ここで、入団以来抑えていたホームランバッターへの転身を図ります。しかし大きく調子を落とし、1978年は不本意な成績で終わりました。

アキレス腱断裂の大怪我から復活すると、ホームランバッターへ転身

再起を賭ける1979年、キャンプでまさかの躓きを経験します。2月にランニング終わりの柔軟体操で右足アキレス腱断裂を負い、全治6ヶ月という診断を受けました。当時、同じ怪我から復帰したプロ野球選手はおらず、引退という二文字も脳裏に浮かび始めます。しかし、主治医が、「走れないなら、歩ける本塁打を打てばいい」とアドバイスしたことで、門田博光は復活を目指すことを決意しました。

約半年のリハビリを経て、同年8月にはファームの試合で復帰します。そして9月には一軍にも復帰し、2本塁打を放ちました。さらにオフには、本塁打を打つために打撃改造して1980年シーズンに臨みます。守備に就くことは難しく指名打者のみの出場となりましたが、同年はリーグ4位タイの41本塁打で完全復活します。翌1981年には7月に当時のプロ野球記録である月間16本塁打を記録するなど、44本塁打で初の本塁打王となりました。さらに1983年にも40本塁打で2度目の本塁打王と勢いは止まりません。この頃の南海ホークスは、かつての常勝時代から色褪せてしまい、Bクラス常連となっていましたが、門田は主軸としてチームを牽引しました。

南海球団最終年に、不惑の40歳で本塁打王と打点王の2冠を獲得

その後も、毎年20-30本塁打をコンスタントに記録し、1987年には史上24人目の通算2000本安打を達成しました。しかしその間もチーム状況は一向に改善せず、1988年には球団売却という話が具体化します。同年、40歳でシーズンを迎えていた門田博光は、開幕から1試合も休むことなく試合に出場し続け、自身初の全試合出場を達成しました。さらには44本塁打、125打点と40歳にして2冠王を獲得し、プロ野球史上最年長MVPも獲得します。南海球団最終年に、年齢を感じさせないプレーを見せつけ、不惑の40歳がリーグの主役となりました。

オリックスで2年プレー後、ホークスに復帰して現役生活最後を迎える

新たな経営母体はダイエーとなり、本拠地も福岡移転が決まっていました。しかし、家庭の事情で関西を離れられない門田博光は、1対3のトレードで、オリックス・ブルーウェーブへの移籍が決まります。41歳にして新天地でのプレーとなりましたが、同年のパ・リーグは稀に見る混戦となり、門田も強力ブルーサンダー打線の中核としてチームを牽引しました。同僚に石嶺和彦がいたため、自身も50試合近く外野手として守備に就き、ブーマー、門田、石峰、藤井康雄という重量打線で西武、近鉄と激しい優勝争いを展開します。

しかし終盤にホームランを放った後、ブーマーとのハイタッチで肩を脱臼し戦線離脱したことがチームにとって大きな命取りとなりました。終盤に復帰して33本塁打、93打点とチーム2位の成績を収めましたが、自身久しぶりの優勝を逃します。さらに翌年も、31本塁打、91打点と年齢を感じさせない成績を残しましたが、西武に独走優勝を決められました。

1991年、関西を離れることが可能となり、再び古巣への復帰を果たします。しかし、さすがの門田も年齢は43歳となっており、同年は18本塁打、66打点と衰えを隠せなくなりました。そして1992年、44歳で迎えたシーズンでは、キャリアワーストの65試合の出場に留まり、通算23年の現役生活に別れを告げました。それでも、ともに歴代3位の567本塁打、1,678打点、歴代4位タイの2,566安打など驚きの数字が並んでいます(2016年末時点)。

現役引退後は、日本プロ野球のユニフォームを着ることなく過ごす

現役引退後は、指導者としてプロ野球のユニフォームを一切着ることなく過ごしています。長らく解説者として務めましたが、2005年には小脳梗塞を発症し入院を余儀なくされました。幸い、後遺症も残らず退院します。2006年には野球殿堂入りを果たし、2009年には関西独立リーグ大阪ホークスドリームに設立に関わり、一時は監督も務めました。


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