高橋尚子について

名前高橋尚子
生年月日1972年5月6日
日本
出身岐阜県岐阜市
プロフィール藍川東中時代から陸上を始める。県岐阜商3年の時、高校駅伝に出場。大学卒業後、有森裕子選手を育てた小出義雄監督を慕い、95年リクルートに入社。トラックの中長距離選手として活躍し、96年日本選手権1万メートルで5位。97年同監督とともに積水化学に移籍。同年初マラソンとなった大阪国際で7位、世界陸上選手権5000メートル13位。

98年全国都道府県対抗女子駅伝で区間賞を受賞。同年2回目の挑戦となった名古屋国際女子マラソンで、日本最高記録の2時間25分48秒をマークし優勝。同年国際グランプリ陸上大阪大会、織田記念陸上競技大会5000メートルで優勝。全日本実業団対抗女子駅伝では9人抜きの快走で区間賞を受賞。同年バンコク・アジア大会で世界歴代5位となる2時間21分47秒をマーク、自身の日本記録も更新し、金メダルを獲得。

00年名古屋国際女子マラソンに2時間22分19秒で優勝。同年シドニー五輪では五輪新記録の2時間23分14秒をマークし、日本女子陸上界初の金メダルを獲得。閉会式では旗手を務める。同年女性スポーツ選手では初となる国民栄誉賞を受賞。

01年青梅マラソン(30キロの部)で1時間41分57秒の日本記録をマークし初優勝。同年積水化学に所属したままプロ宣言を行い、日本陸連に承認される。9月ベルリンマラソンで2時間19分46秒の世界最高記録をマークし、優勝。163センチ、47キロ。

小出義雄監督との出会いで才能が開花

後の金メダリスト、高橋尚子が陸上を始めたのは中学生の頃でした。高校は岐阜商業に進学し、ここでも陸上競技で活躍し、高校駅伝に出場しますが当時の高橋はのちにオリンピックに出場するほどの圧倒的な実力を見せるわけではありませんでした。

というのも当時の高橋はマラソン選手ではなく、800mの選手でした。県大会では岐阜県で1位になっていましたが、インターハイでは予選敗退でした。さらに高校2年生の頃には全国都道府県対抗女子駅伝に出場しますが、結果は47人中45位と決して優れたものではありませんでした。

しかし、大阪学院大学進学後に高橋は頭角を現し、日本学生種目別選手権の1500mで優勝し、全国で初タイトルを獲得します。しかし学生日本一を決める大会、日本インカレでは表彰台こそ登れど、優勝まで届かないという年が続きました。

大学卒業後も陸上を続けたいと願っていた高橋には実業団からもスカウトの声がありましたが、高橋が希望していたのは小出義雄が監督を務めるリクルートへの入団でした。当時のリクルートは大卒選手を取らないという方針がありましたが、高橋の熱意を見た小出は合宿に参加させ、高橋の素質を見抜きます。

大学時代に成長した高橋はずば抜けていた素質を持っていると小出は判断し、特例という形で95年、リクルートへと入社させます。当時のリクルートは有森裕子、鈴木博美、志水見千子、五十嵐美紀など日本代表クラスの選手をずらりと揃えている最強チームでしたが、高橋はすぐに駅伝メンバーに選ばれるという活躍を見せます。

大きな期待を込めて迎えたデビュー戦の大阪国際女子マラソンでしたが、高橋はこの大会では2時間31分32秒の7位に終わってしまいます。そして、この年の4月、小出が積水化学に移籍することになり、高橋らもそれに追随する形でリクルートを離れていきました。

名古屋国際女子マラソンで日本新記録をマーク

新天地となる積水化学でも小出義雄監督との師弟関係は続くことになりました。当時の高橋は中距離ランナーとして活動していましたが、97年の世界陸上で女子5000mを13位に終わったことで本格的にマラソンに切り替えます。

そして迎えた98年の名古屋国際マラソン、高橋はこのレース、30km地点まではスローペースの先頭集団に目立たない位置でついていましたが、30キロを過ぎに小出の「ここからいけ!」という指令で猛烈なスパートを開始します。すると30~40キロを32分27秒、残りを7分10秒で走り抜け優勝しました。この時のタイムは2時間25分48秒の日本最高記録を樹立するというものでした。

さらに国際グランプリ陸上大阪大会や織田記念陸上競技大会5000mでも高橋は優勝しました。全日本実業団対抗女子駅伝では9人抜きの快走で区間賞を受賞しました。このほか、バンコク・アジア大会で高橋は世界歴代5位となる2時間21分47秒をマークして、自身の日本記録も更新し、金メダルを獲得するという活躍を見せ、まもなくに迫ったシドニーオリンピックに期待を抱かせました。

シドニー五輪で金メダル。国民栄誉賞受賞

迎えた2000年、オリンピックイヤーに高橋尚子は奮起します。3月に行われた名古屋国際女子マラソンでは2時間22分19秒という大会新記録を叩き出して優勝しました。この時の高橋は決して体調が万全というわけではありませんでした。

そして7月には調整として札幌国際ハーフマラソンに出場し、ここも高橋は1時間9分10秒の記録で優勝し万全の調子でシドニーへと向かいました。

本番のシドニーオリンピック女子マラソン、高橋はメダルの期待を一身に受けて走ります。これまでの展開では高橋は30キロ過ぎごろからスパートをかけるレーススタイルが身についていましたが、このレースでは18キロ過ぎからスパートをかけて先頭集団を抜け出します。そして、26キロごろからリディア・シモンとのデットヒートを演じることになりますが、高橋が二枚腰を発揮したのは34キロを過ぎたあたり、それまでかけていたサングラスを外す瞬間でした。

そこから猛スパートをかけてシモンを突き放すと、そのまま逃げ切って日本陸上界悲願とも言える優勝を飾りました。ゴール直後の高橋は笑顔に満ち溢れ「とても楽しい42.195キロでした」という名言とともにファンの記憶に残りました。

大会終了後、高橋はその功績をたたえて女子のスポーツ選手として史上初となる国民栄誉賞を受賞するなど、一マラソン選手から、国民的スターになりました。

プロ宣言、アテネ落選も不屈の闘志で復活

日本女子マラソン界のスターになった高橋尚子。オリンピック翌年の01年には青梅マラソンの30キロの部で1時間41分57秒の日本記録をマークして初優勝を飾るなど、その実力は健在でした。この年から高橋は積水化学に所属したままプロ宣言を行い、プロのマラソン選手となりました。

プロになってから初めての出場となったのは9月ベルリンマラソンでした。ここでも高橋は2時間19分46秒の世界記録をマークして優勝を飾り、女子マラソン界に敵なしという状態になります。

しかし、翌02年から高橋は故障に悩まされることになります。この年のベルリンマラソンも優勝して連覇を飾りましたが、この大会中に肋骨の疲労骨折を起こしていたことが判明しました。アテネオリンピックの選考会になっていた03年のパリ世界陸上を断念することになります。

さらに02年12月には恩師である小出の退職が決定、今まで通りの指導を受けるために高橋も退職する道を選び、03年5月にスカイネットアジア航空と2年間の所属契約を結び、アテネオリンピックへの出場に意欲をみせます。

ところが、高橋はこの頃から勝てなくなっていきます。11月に行われた東京女子国内マラソンでは6年10ヵ月ぶりとなる敗北を喫します。そして、この結果がアテネオリンピックの出場権を大きく左右することになりました。

3月の代表選考時、高橋はまさかの落選となります。理由としては選考レースでの優勝がなかったこと、タイム等が平凡というものでしたが、他の選出された選手たちと比べても高橋ははるかに実績があったことから賛否両論ある結果となりました。

その後も高橋の故障癖は抜けず、05年には恩師である小出からの独立を発表しました。文字通りゼロからのスタートとなった高橋ですが、11月に行われた東京国際女子マラソンで復活の優勝を飾りました。しかし、これが高橋にとって最後の輝きとなり、08年の10月に現役引退を発表しました。


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