荒川静香について
名前 | 荒川静香 |
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生年月日 | 1981年12月29日 |
国 | 日本 |
出身 | 東京都品川区 |
プロフィール | 96年世界ジュニア8位、全日本ジュニア選手権優勝、アジア選手権優勝。97年NHK杯6位、全日本フィギュア初優勝、アジア選手権優勝。98年長野五輪13位。同年米国にスケート留学。99年全日本フィギュア2連覇。同年全国高校スケート優勝。同年韓国冬季アジア大会で銀メダル。06年トリノオリンピックで金メダルを獲得。 |
類まれな才能で、高校生ながら五輪出場
トリノオリンピックで金メダリストとなる荒川静香は1981年、東京に生まれました。父の仕事の関係で後に鎌倉、そして青春期の大半を過ごした宮城県へと移住します。
運動神経が抜群だった荒川が最初に始めたスポーツはなんと水泳。3歳から泳ぎ始めて、すぐに全泳法を覚えるという抜群の運動神経の持ち主でした。そして5歳の時、荒川は後に自身の代名詞となるスケートを始めます。小学生になると荒川は本格的にフィギュアスケートに打ち込み、長久保裕の指導によってその才能を開花させていきます。
荒川にその片鱗が見られたのは小学3年生の時、5種類もの3回転ジャンプをマスターした時でした。通常ではありえないことだけに周囲は荒川を「天才少女」と称するようになりました。93年、6年生になった荒川は全日本ジュニア選手権に初出場して7位入賞を果たします。
そして翌94年、荒川は2度目の全日本ジュニア選手権に出場し優勝、この大会は中学3年間とも優勝を飾り、史上初の3連覇を果たします。また全国中学校スケート・アイスホッケー大会でも同様に3連覇を達成しました。
そして東北高校に進学した98年、荒川は全日本選手権で村主章枝らを破って高校1年生で優勝。この勝利が決め手となって長野オリンピックへの出場権をつかみ取ります。
そして長野オリンピックでは女子シングルに出場して13位。同時に選出された世界選手権ではジャンプミスが響いて22位に終わりました。
この年、荒川はさらなるスケートのレベルアップを果たすべくアメリカへと留学しました。この成果が出たのは99年の全日本選手権、荒川は再び優勝を飾り連覇を達成し、高校生として桁違いの実力を発揮していきました。
故障をおして世界選手権優勝
高校を卒業した後、荒川静香は早稲田大学へ進学します。ここで初めて東北を離れることになりますが、荒川は新コーチとして染谷慎二に師事し、初めてマンツーマンのレッスンを受けます。初年度は全日本選手権こそ2位に入りましたが、国際大会では目立った活躍がありませんでした。
翌01-02シーズンは佐藤久美子にコーチをスイッチし、ソルトレイクシティオリンピックに出場することを目指しましたが、全日本選手権のジャンプ失敗が響いて惜しくも総合2位。2大会連続のオリンピック出場を果たすことができませんでした。
続く02-03シーズンはコーチを佐野稔に変更し、振り付けはニコライ・モロゾフに依頼することになりました。ここから荒川は急成長を遂げて、荒川はユニバーシアード冬季競技大会、冬季アジア大会で立て続けに優勝します。さらに四大陸選手権では2年連続の2位、初めて進出されのグランプリファイナルでは4位に入りました。
ノリに乗っている荒川でしたが、世界選手権前に突如コーチを変更しました。万全の態勢で臨みましたが、この大会中に転倒の際に肩を脱臼するアクシデントが影響して8位。しかし、初の入賞となったこの大会は荒川にとって大きな自信となりました。
大学ラストイヤーとなった03-04シーズンはアメリカへ練習場所を移し、世界選手権制覇を目指します。前年同様にリチャード・キャラハンの指導を受けた荒川はGPファイナルを含むGPシリーズ4戦全てで表彰台に上がり、全日本選手権3位ながら世界選手権の代表に選ばれるなどの成績を残しますが、世界選手権前にまたもコーチを変更しタチアナ・タラソワに託します。
そうして迎えた世界選手権ではフリーで3回転ルッツ、3回転トゥループなどのコンビネーションジャンプを成功させ、悲願の初優勝。日本人として10年ぶりの金メダルを獲得しました。
トリノ五輪でアジア人初の金メダリストに
スケート選手として脂が乗り切った荒川静香は大学卒業後にプリンスホテルへ就職しました。そこで選手として活躍した荒川の新しい目標となったのはトリノオリンピックでした。
04-05シーズン、荒川はNHK杯で優勝し、GPファイナルで自身最高の2位に入りますが、全日本選手権は足の故障もありフリーを棄権しました。これが影響したのか、世界選手権では総合9位に沈みました。
荒川にとってオリンピックのラストチャンスとなった05-06シーズン。荒川は派代表選考には欠かせない全日本選手権で3位に入って代表に選出されます。
トリノオリンピックでのメダル奪取を目的とし、荒川はタチアナ・タラソワとのコーチ関係を解消し、ニコライ・モロゾフと佐藤久美子の2名に依頼しました。さらにフリーで使用していた曲もトゥーランドットに変更するなど、万全の態勢を整えました。
そうして迎えたトリノオリンピックで荒川はSPでノーミスの内容で3位につけ、フリーでは今や伝説となったイナバウアーを披露して観客を沸かせ、合計スコア191.34で念願の金メダルを獲得。荒川の金メダルはアジア人として史上初、そしてフィギュアスケート史上最年長でのメダル獲得となりました。
プロスケーター転向。イナバウアーを間近で
トリノオリンピック終了後、荒川は世界選手権を調整不足を理由に回避。そしてシーズンが終わった5月に荒川はプロスケーターへの転向を発表しました。
競技選手としてピリオドを売った荒川ですが、世界各国のアイスショーに出場することで、荒川の華麗な滑り、伝説の大技イナバウアーを間近で見られるようになりました。