ライオネス飛鳥について

名前ライオネス飛鳥
生年月日1963年7月28日
日本
出身埼玉県蓮田市
プロフィール80年女子プロレスに入り、81年全日本ジュニア・チャンピオン、82年全日本チャンピオンとなる。83年8月長与千種とクラッシュギャルズを結成。85年8月WWWA世界タッグチャンピオン。また84年8月には「炎の聖書」でレコードデビュー。

89年春プロレスを引退、芸能活動を開始。

94年女子プロオールスター戦で現役復帰。99年GAEA後楽園大会で長与千種とタッグ戦で対戦。全日本女子プロレス中継の解説などでも活躍。

00年5月GAEA有明大会で11年ぶりに長与千種と“クラッシュ2000”としてコンビを再結成。170センチ、78キロ。

ビューティーペアに憧れて女子プロレスラーに

東京都で生まれたライオネス飛鳥。しかし、間もなく飛鳥の家は埼玉県蓮田市に引っ越し、そのため飛鳥は主に埼玉県で育っています。幼少期はプロレスに興味があったわけではありませんでしたが、中学生のころに見た女子プロレス、「ビューティーペア」に憧れるようになります。

次第にその憧れ強くなった飛鳥は80年、当時通っていた高校を中退して全日本女子プロレスの新人募集へ応募しました。当時の女子プロ人気は高く、飛鳥が応募した当時は数百人もの女性が入門するために応募してきたといわれています。厳しい審査の下、飛鳥は合格し晴れて入門を果たしました。そして入門間もない5月にいきなりデビュー。当時の飛鳥のリングネームは本名の北村智子として出場していました。

170センチと女子の中では比較的長身だった飛鳥はすぐに台頭します。ジャガー横田の指導の下でメキメキと才能を伸ばしていった飛鳥は新人王、全日本ジュニア王座、そして全日本シングル王座などシングルでも大活躍を見せ、一躍注目の女子レスラーになりました。

長与千種との出会いで生まれたクラッシュギャルズ

シングルでも大活躍を見せていたライオネス飛鳥ですが、転機が訪れたのは83年。この年に飛鳥は長与千種とのタッグを組むことになりました。これが「クラッシュギャルズ」と名付けられ、飛鳥もここでリングネームを「ライオネス飛鳥」に変更します。ちなみにリングネームを変更する際、メスライオンを意味する「ライオネス」はすぐに決まりましたが、「飛鳥」ではなく「明日華」とする予定でした。しかし、語呂がよくないという理由で現在の「飛鳥」にしたという逸話が残っています。

クラッシュギャルズ結成の理由は長与による誘いでした。当時、先輩レスラーとの軋轢に悩んでいた長与が同じ悩みを抱えていた飛鳥を誘ったことで意気投合し、タッグを結成しました。当時の女子プロとは一線を画したパワーあふれるファイトスタイルがクラッシュギャルズの持ち味でしたが、飛鳥の堂々たる体躯から成り立つものでもありました。

前田日明を意識したファイトに、キックボクサーの山崎照朝をトレーナーに招き入れるなどした結果、クラッシュギャルズは84年にWWWA世界タッグ王座を獲得します。

クラッシュ人気も絶頂期に引退

クラッシュギャルズを結成し、女子プロ史上に残る人気レスラーになったライオネス飛鳥。ベビーフェイスだったクラッシュギャルズのヒールレスラーたちとの抗争は女子プロの最大の見どころとなり、いつしかファンも急増しました。かつて飛鳥が憧れたビューティーペアの再来とまで言われるようになります。タッグ王座に輝いた84年には「炎の聖書」というタイトルの楽曲を発表し歌手デビューを果たします。以来、シングル8枚、アルバム4枚、そしてマキシシングル2枚を発売する歌手としても活躍しました。

しかし、89年にタッグを組んでいた長与千種が突然の引退発表します。これに合わせる形で飛鳥も現役を引退し、クラッシュギャルズは解散してしまいました。

現役引退後の飛鳥はプロレス解説者へと転身を遂げますが、同時にタレントとしても起用され、映画出演など女優としても活動します。また、JAFの国際A級ライセンスを獲得したことでレーサーとしてもデビューするなどマルチな才能を見せます。

ところが、やはり女子プロレスの世界が好きだった飛鳥は94年に現役復帰を決意します。約5年ぶりとなるリングインには大歓声が上がりました。しかし、ブランクが長かったのと甲状腺疾患の影響もあり、思うような戦いができずに苦戦します。

その後、飛鳥は吉本プロレスJd'にフリーランスとして戦いの場を移し、ヒールに転身します。FMWやLLPWなどでも活躍していきます。この頃の飛鳥の試合はパワーにあふれたもので中でも井上京子とのハードコアシングルマッチは今もなおプロレスファンから語り草となる試合でした。

現役復帰。クラッシュ2000で復活

ライオネス飛鳥の復帰から5年後の99年、ついに飛鳥とタッグを組んでいた長与千種がリングに復帰します。しかし、ヒールに転身した飛鳥はすぐにタッグを組むのではなく、別のメンバーとタッグを組んで長与と対戦するようになりました。そうして2回の戦いを経て、長与とタッグ「クラッシュ2000」を結成します。往年のファンたちの涙を誘いました。

05年、クラッシュ2000として活動した飛鳥はこの年の4月に横浜文化体育館にてクラッシュ2000ファイナルマッチ&ライオネス飛鳥引退試合により、クラッシュ2000を永久封印することを決定しました。さらにその1週間後、後楽園ホールで長与が引退と同時にGAEA JAPANを解散することになりました。これで飛鳥と長与のプロレスラーとしてのキャリアが幕を閉じました。


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