八木沼純子について

名前八木沼純子
生年月日1973年4月1日
日本
出身東京都港区
プロフィール5歳の時からフィギュアスケートを始め、87年品川中学2年の時、オーストラリアで開催されたフィギュアスケート世界ジュニア選手権で2位に入る。88年全日本選手権2位、カルガリー五輪14位。

89年全日本選手権2位、世界選手権15位。90年新設のアーティスティック・フィギュア競技会で優勝、世界選手権12位。

91年世界選手権11位。

95年4月プロに転向。同年10月〜11年3月フジテレビ「FNNスーパータイム」のスポーツキャスターを務める。

福原美和と生み出した表現力豊かな滑り

八木沼純子がスケートを始めたのは5歳の頃でした。今でこそフィギュアスケートは早くから始めるのが王道のようになっていますが、当時では珍しいことでした。その頃の八木沼は地元である品川プリンスクラブでスケートを続けますが、ここで八木沼は恩師・福原美和に出会います。

福原の巧みな指導で八木沼はメキメキと成長していき、ジャンプを小学1年生で初めて飛べるようになりました。そして大技であるトリプルルッツをなんと5年生で会得します。その他でも表現力豊かな滑りが八木沼の代名詞となり、レイバックスピンの美しさは当代随一とまで称されます。

中学2年生になった87年、八木沼は世界ジュニア選手権に出場しました。規定、ショートプログラムともに1位になります。しかし、フリーでクリスティー・ヤマグチ、柏原由紀子に敗れて3位に終わりました。結果的に八木沼は総合点で2位に終わり、惜しくも優勝を逃しました。

史上最年少での冬季五輪代表選手に

惜しくも敗れたとはいえ、初めてともいえる大きな大会で2位に入ったことは八木沼純子にとって大きな自信となりました。そして、八木沼が注目を浴びたのは翌88年のことでした。

この年に開催された全日本選手権は同年に行われるカルガリー冬季オリンピックの代表選考会でもありました。ここで出場選手を2名決めるのですが、1人はレジェンドともいえる伊藤みどりでほぼ決まり、実質ラスト1枠を争うという状況になりました。

そのラスト1枠、初出場となった八木沼は注目選手というわけではなく、年上の大学生選手たちが注目を集めていましたが、オリンピックがかかった舞台で硬くなった大学生選手たちは軒並み今一つな滑りに終始しました。一方でノーマークだった八木沼はリラックスして滑ることができたため、なんと伊藤みどりに次ぐ2位という破格の好成績を残します。

そしてこの成績が決め手となり、カルガリーオリンピックの代表に八木沼が選出されました。当時14歳だった八木沼は第二次世界大戦後に開催された冬季オリンピックの代表選手としては史上最年少という快挙を成し遂げます。ちなみに八木沼に次ぐ3位に入賞したのは同じく中学生だった佐藤有香。大会を通じて「中学生旋風」が吹き荒れました。

無名の存在だった八木沼ですが、冬季史上最年少でのオリンピック選手となりましたが、カルガリーオリンピック本番では調整に失敗して総合14位に終わりました。そして調整失敗は尾を引き続けていたのか、その後に出場した世界フィギュア選手権も21位とイマイチな成績に終わりました。

苦悩のシーズンが続く「銀板のゴクミ」

89年シーズン、八木沼純子はジュニア大会の優勝がないことを理由に階級をジュニアのままにとどめました。カルガリーオリンピック出場以降、八木沼の人気は急上昇し、アイドル後藤久美子の愛称で当時の流行語「ゴクミ」になぞらえ「銀板のゴクミ」と称され、さらにポニーテールの髪形とあどけない赤い頬は八木沼のトレードマークでもあり、八木沼を見大河たために競技場に駆け付けるファンも増えていきました。

悲願とも言えたジュニア大会の制覇に向けて邁進した八木沼ですが、そこに待っていたのは全日本選手権でともに中学生旋風を巻き起こした佐藤優香でした。全日本ジュニアではその佐藤に敗れて2位、これで参ったか、世界ジュニアも2位に終わります。しかし前年にオリンピック出場のキッカケとなった全日本選手権では年上の選手を相手に2位に入るなど、相変わらずの強さを見せつけます。

その後の八木沼の成績を見ると、世界選手権では10位より上にランクされたことが一度もなく、ジュニア選手権のリベンジとばかりに情熱を注いだ全日本選手権は89-90年シーズン、90-91年シーズン、91-92年シーズンと3シーズン連続して3位。表現力に優れた八木沼の滑りは定評があったのですが、一方でトリプルルッツなどの大技の成功率が低く、ジャンプ後に転倒にするのがほとんどでした。そのためか89-90年シーズンのNHK杯でトリプルルッツを成功させると、解説者から驚かれるという事態が起きました。

現役引退後、プロスケーター&キャスターへ

90年に新設されたアーティスティック・フィギュア競技会で優勝した八木沼純子ですが、全日本選手権ではあと一歩で優勝を逃し続けました。この結果が影響したか、92年のアルベールヒルオリンピックの代表には選ばれないという苦渋を味わいます。

その後も八木沼の勝ち運のなさは相変わらずで、92-93年シーズンも全日本選手権は2位、そしてNHK杯12位、さらにもともとあまりいい成績を残していなかった世界選手権では25位で屈辱の予選落ちを味わいました。一方でユニバーシアードで優勝するなど、大会によって得手不得手があるのがわかる成績を残しました。

このムラのある成績が災いしたのか、94年のリメハンメルオリンピックをも代表選考から漏れました。これで踏ん切りがついたのか、翌95年、八木沼は早稲田大学を卒業したのをキッカケにプロスケーターへ転身します。同時に競技生活からの現役引退を発表します。

現役引退後の八木沼はプロスケーターとしてリングに上がるとともにスポーツキャスターとしても活躍の場を広げました。かつての「銀板のゴクミ」はメディアでスポーツ選手の情報を届けることに奔走しています。


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