名前伊藤智仁(イトウトモヒト)
生年月日1970年10月30日
日本
出身京都府
プロフィール小学校3年で野球を始め、中学2年から投手。高校卒業後、三菱自動車京都に入り、1991年には日本選手権ベスト8進出の原動力となるなど活躍。1992年バルセロナ五輪代表、銅メダルを獲得に貢献。

1993年ドラフト1位でヤクルトに入団。前半戦を7勝2敗、防御率0.91という脅威の成績で同年の最優秀新人賞を獲得。同年、肘を壊し誠意戦離脱。手術、リハビリを経て、1996年復活。

1997年はチームの抑えを務め7勝19セーブでカムバック賞受賞。1998年から先発に復帰し3年で22勝をマーク。しかしその間、3度右肩手術を強いられる。2001年以来一軍登板はなく、2003年限りで現役引退。

2004年からは、自身の経験を生かしてヤクルトの投手コーチとして活躍中。

通算成績は127試合、37勝27敗25S、防御率2.31、558回0/3、548奪三振。新人王、カムバック賞。花園高卒、右投右打、183センチ、76キロ

バルセロナ五輪では、大会奪三振記録を塗り替えて銅メダル獲得

伊藤智仁は京都で生まれ、幼少の頃から父が監督を務めるチームで野球を始めます。中学2年から投手になると、花園高校時代は自宅で毎日のシャドーピッチングをするのが日課となっていました。甲子園には縁がなく、卒業後は三菱自動車京都で社会人として野球を続けます。当時、持ち球はストレートとカーブしかないため、金属バットを持つ社会人打者には通用しません。そこでバットにかすらせないようにと、同僚の永田晋一にスライダーを教わったことで、後に魔球と言われる決め球が生まれました。

スライダーを身に着けると、ストレートの球速も増し、1991年では日本選手権でベスト8進出を果たします。同年のドラフトでの指名もありえましたが、それを凍結してバルセロナ五輪を目指しました。そして全日本代表に名を連ね、本戦に出場すると驚きの記録で日本の銅メダルに貢献します。伊藤は3試合で2勝しましたが、圧巻は18イニングを投げて、27三振を奪ったことでした。1大会奪三振記録を塗り替え、後にギネス記録となり、同年秋のドラフトで注目の的となりました。

ヤクルト即戦力として、前半戦を脅威の防御率0.91で折り返す

松井秀喜に4球団の指名が集中しましたが、伊藤智仁も負けじと3球団競合となり、ヤクルトスワローズへドラフト1位で入団します。ヤクルトは、野村克也監督が着任して以来、かつての低迷期を脱出して、前年にはリーグ優勝を成し遂げていました。そして4月20日の阪神戦で先発としてプロデビューします。社会人時代に鍛え上げられたストレートと高速スライダーを武器に、7回2失点、10奪三振と見事初勝利を収めました。

同年5月から、高津臣吾がチームのリリーフエースとなりましたが、経験が浅かったため、完投能力のあった伊藤は球数に関係なく、マウンドに立ち続けます。しかし打線の援護がほとんどなく、5月最後の登板でも延長12回で193球を投げぬきましたが、勝利を得られませんでした。

それでも6月も、変わらず異次元の投球を披露します。全5試合に先発し3勝1敗、3完封で月間MVPを獲得しました。特筆すべきは51イニング、695球を投げて、わずか2失点だったことです。しかも1敗を喫した巨人戦でも、9回裏にサヨナラアーチを浴びましたが、セ・リーグ記録に並ぶ1試合16奪三振を記録しています。結局オールスター前の前半戦だけで7勝2敗、防御率0.91という脅威の数字を残しました。

右肘痛で戦線離脱するも、前半戦の活躍だけで新人王を受賞

しかし、7月中旬には酷使がたたり右肘痛を発症します。元々、ルーズショルダー(非外傷性肩関節不安定症)であることをわかっていながら起用し続けたことで、後半戦は戦線離脱し1球たりとも投げられませんでした。チームはそのまま優勝し、さらには日本一にまで上り詰めましたが、当然日本シリーズでの登板は訪れません。しかし、前半戦でのあまりのインパクトの強さに、11本塁打を記録した松井秀喜らを抑えて新人王を受賞しました。

手術、そして3年のリハビリを経て復活しカムバック賞受賞

その後の伊藤智仁は、まさに怪我との戦いとなりました。肘の痛みやルーズショルダーに加えて、1994年は右肩を痛め、最初の手術に踏み切ります。そこから出口の見えないリハビリ生活に突入し、丸3年もの間、一軍マウンドから遠ざかりました。そして1996年後半に復帰を果たすと、短いイニングを投げるリリーフとして14試合に出場します。

そこで肩慣らしを終えると、1997年は不調だった高津臣吾に代わって、チームの抑えを務めます。故障のリスクとは常に隣り合わせでしたが、153キロと自己最速も記録し、高い奪三振率もキープしていました。同年は7勝2敗19セーブでカムバック賞も受賞します。そして1998年には、再び先発投手に復帰しました。援護率が低いのはルーキーイヤーと変わらずで、6勝11敗と黒星が先行します。それでもチームトップ、リーグ3位の防御率2.72で完全復活を印象付けました。

3度の手術も、史上最高のスライダーが復活することなく引退

1999年、2000年も登板間隔を空けながら起用され、先発として連続で8勝をあげます。しかしこの間も伊藤智仁の右肩には大きな負担がかかっていました。右肩血行障害で指先に血が通わなくなっており、1999年オフに2度目、2001年オフには3度目となる右肩手術を強いられます。さらに辛いリハビリを経て、2002年秋季に登板機会を得るも、9球目に右肩を亜脱臼するという不運にも見舞われました。

球団からは引退勧告されるも、過去最大級の大減俸で現役続行にこだわります。しかし完治には程遠く2度目の復活は実現しませんでした。プロ野球の大打者や、実際にボールを受けていた古田敦也らが、口をそろえて賞賛した「史上最高のスライダー」は二度と見られることなく、2003年限りで現役を引退しました。

引退後は投手コーチとして、自らの辛い経験を指導に生かす

引退後は、即ヤクルト二軍投手コーチに就任し、2017年現在も同じユニフォームで指導をしています。その矛先は、若手に限らず、助っ人外国人にもおよび、6年間在籍したかつてのクローザー・バーネットにも大きな影響を与えました。不調のときも変わらず親身になって指導を施し、ヤクルト時代97セーブを築き上げました。さらにその後はメジャー復帰も果たしています。また一軍投手コーチとしても、2015年はリーグ優勝に貢献し、自身の経験を生かしたコーチングを今なお行っています。


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