名前武田久(タケダヒサシ)
生年月日1978年10月14日
日本
出身徳島県
プロフィール生光学園高から駒沢大に進み、日本通運に入社。2001年都市対抗野球準々決勝対JT戦で毎回の14奪三振で完投勝利をおさめ、4年ぶりのベスト4進出に貢献。

2002年ドラフト会議で、日本ハムファイターズから4巡目指名を受け入団。2005年、中継ぎとして頭角を現すと、2006年はセットアッパーに定着して40ホールド、45ホールドポイントで最優秀中継ぎ投手に輝く。同年はチームの44年ぶり日本一に大きく貢献。

2009年には、クローザーに抜擢されて、34セーブで最多セーブ投手。2011年から2年連続3度目の最多セーブ投手のタイトルを獲得。パ・リーグ初の100ホールド・100セーブ達成者となる。2014年不調に陥り、2015年には2度の手術で一軍登板無しに終わる。2016年、2年ぶりに一軍で登板。

通算成績は527試合、31勝30敗167S、107ホールド、防御率2.59、559回0/3、365奪三振(2016年まで)。最優秀中継ぎ投手1回、最多セーブ投手3回。生光学園高等学校卒、駒沢大学卒、日本通運出身、170センチ、68キロ。右投左打

中学3年から投手に転向し、大学、社会人時代も活躍してプロ入り

武田久は1978年、徳島県に生まれます。そして野球の才能が開花したのは、中高一貫だった生光学園時代でした。しかも中学2年までは内野手を務めており、3年からようやく投手へ転向します。すると早くも頭角を現し、四国大会でも優勝を達成しました。高校生となると1年からエースを務め、3年夏には県下有数の投手として、生光学園も優勝候補に挙げられます。3回戦では、その噂どおりノーヒット・ノーランを達成し甲子園まで後3つというところまでたどり着きました。しかし順々決勝で、わずか1球の失投を捉えられ、0-1で無念の敗退となりました。

卒業後は駒澤大学に進み、高校時代同様に1年から主力投手となります。その年の秋季リーグでは、防御率1位の活躍でチームを優勝に導き、最高殊勲選手に選ばれます。その後もコンスタントに勝利し、歴代3位タイの23勝まで積み上げました。社会人時代は、日本通運に入社します。普段は配送業務を担当し、2001年の都市対抗野球大会では史上6人目の毎回奪三振を達成するなどチームのベスト4進出に大きく貢献しました。若獅子賞も受賞し名を馳せると、翌2002年のドラフト会議では、日本ハムファイターズから4巡目指名を受けて入団しました。

入団後2年間は低迷するも、3年目に中継ぎ投手として頭角を現す

即戦力として24歳で入団した武田久は、4月にリリーフで初登板をし、6月には初勝利と順調にスタートを切りましたが、その後故障により離脱します。初年度は13試合登板に終わり、巻き返したい2年目も7試合の登板で防御率6.14と大きく期待を裏切りました。

勝負の3年目、夏場にようやく一軍にあがると、自らの好成績で勝ちパターンの中継ぎの一角として名乗りを上げます。結局、シーズン途中から最後までで22イニング連続無失点を達成し、2勝、2ホールド、防御率0.79と完全に一軍に定着しました。

セットアッパーとしてタイトルも奪い、2年連続リーグ優勝に貢献

前年の活躍でヒルマン監督の信頼を得ると、2006年はクローザーMICHEAL(マイケル中村)につなぐセットアッパーとして固定されます。低身長ながら膝が地面に着くほど沈む込み独特なフォームを武器に、完璧な仕事ぶりを見せました。同年は、球団記録も塗り替えるリーグ最多の75試合に登板し、5勝3敗3セーブ、40ホールド、防御率2.09という好成績を残します。チームは25年ぶりのリーグ優勝、44年ぶりの日本一を達成し、武田久自身も、ともにリーグ新記録となる40ホールド、45ホールドポイントで最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得しました。

2007年、チームは開幕ダッシュに失敗し大きく負け越します。しかし、武田久&MICHEALの勝利の方程式は健在で、交流戦初優勝から大型連勝などで巻き返し、球団史上初となる連覇を達成しました。武田は2年連続チームトップの64試合に出場し、7勝28ホールド、MICHEALも2年連続30セーブ以上と、チームのリリーフ陣を牽引しました。

クローザーに転身するとシーズン無敗で乗り切り、最多セーブ

2008年、3年連続60試合登板を達成しましたが、防御率4.40と大きく数字を落とします。それでも翌2009年、立場を大きく変えて華麗なる復活を果たしました。同年からは、移籍したMICHEALに代わって、クローザーに抜擢されます。すると前年の不調ぶりを全く見せず、リードしているゲームを確実に勝利に導きました。結局、3勝0敗34セーブ、4ホールドとシーズン無敗で乗り切ります。同年、最多セーブ王に輝いたため、パ・リーグで初めて、最優秀中継ぎ投手と最多セーブ投手の両タイトルを獲得した選手となり、2005年、2006年に引き続いてシーズン被本塁打はわずか1本でした。

100ホールド&100セーブを達成し、3度目の最多セーブ投手獲得

当時の武田久は隔年でしか活躍できず、2010年は大きく数字を落とします。一時は中継ぎに降格させられるほど不調に陥り、20セーブにも届きませんでした。その鬱憤を2011年晴らします。2敗こそ喫しましたが、防御率は前々年よりも改善させて、脅威の1.03という数字をたたき出します。同シーズンでは53試合に登板して2勝2敗37セーブで、2度目の最多セーブ投手となりました。さらに通算100セーブにも到達し、パ・リーグ初となる100ホールド、100セーブを達成します。そしてついに同年は、被本塁打0本でシーズンを終えました。

そして久しぶりに2年連続で好調を維持します。2012年、7年連続50試合登板を達成する56試合に出場し、32セーブで自身3度目の最多セーブ投手に輝きました。9月には球団記録を更新する456試合登板を果たし、月間11セーブで自身初の月間MVPも受賞します。中継ぎ時代から含めて4度目のタイトル獲得ですが、うち3度リーグ優勝と自身の成績がチーム成績に直結していました。

ベテランながら2度の手術も経験し、どん底からの完全復活を目指す

2013年、3年連続4度目の30セーブを達成したものの、チームは前年の優勝から一気に最下位に転落しました。2014年はリードを守りきれないケースが続き、クローザーの座を増井浩俊に奪われました。何度も二軍降格し、まさかの9試合登板で終わります。

2015年は、左膝、右膝と立て続けに手術を強いられ、プロ入り後初の一軍登板無しに終わりました。2012年、2013年とチーム最高年俸だった武田久でしたが、2年連続で数字を残せなかったため、球界史上最大となる減俸も経験します。年齢から引退という二文字もちらつくようになりましたが、2016年2年ぶりに一軍復帰し、本当に意味での復活をかけて2017年シーズンに挑んでいます。


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