名前荒木雅博(アラキマサヒロ)
生年月日1977年9月13日
日本
出身熊本県菊池郡菊陽町
プロフィール熊本工の内野手として活躍、高校通算100盗塁の俊足と、強肩に定評がある。

1996年ドラフト1位で中日に入団。2000年開幕一軍入りを果たす。6年目の2001年、打撃開眼し規定打席不足ながら打率.338をマーク。2002年から二塁手レギュラーを奪う。2004年、初のフル出場、39盗塁で、ゴールデングラブ賞、ベストナインに輝き優勝に貢献。同年からアライバコンビは6年連続でゴールデングラブ賞を受賞。

2007年、31盗塁で初の盗塁王。2008年初の打率3割をマーク。2010年には、アライバコンビでポジションチェンジするも同年から球団史上初の連覇達成。2015年から出場機会が減少するも、2016年球団新記録の370盗塁達成。2017年、史上48人目の通算2000本安打達成。

通算成績は2,083試合、7,308打数1,961安打、33本塁打、457打点、373盗塁、打率.268(2016年まで)。盗塁王1回、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞6回。熊本工高校卒、右投右打、179センチ、72キロ

熊本工業時代、2度甲子園に出場するも目立った活躍はできず

荒木雅博は、熊本県に生まれ高校卒業まで地元で過ごします。菊陽中部小学校時代に、ソフトボールを始め、本格的に野球を始めたのは中学時代でした。3年生になるとキャプテンに就任し、主に3番遊撃手を任されていました。そして、野球の名門・熊本工業高校へ進学します。2年春には、同級生・田中雅興らとともにセンバツ甲子園に出場しましたが、初戦敗退でした。

それほど目立った活躍はしていませんでしたが、2年冬に全日本高校選抜に選出されます。しかし同じ遊撃手には、福留孝介(当時PL学園)、澤井良輔(銚子商)らがおり、本戦メンバーからは漏れました。悔しさをバネに3年春もセンバツ出場し初戦こそ勝利しましたが、2回戦敗退となります。3年最後の夏は県予選準決勝で敗退し、夏は一度も聖地の土を踏めずに終わりました。

外れ外れ1位で中日入団も、課題の打撃は5年で15安打に終わる

1995年ドラフト会議、高校生野手は、「西の福留・東の澤井」に次ぐ俊足の大型遊撃手としてスカウトの注目を集めます。そして、福留孝介には1位指名で実に7球団が競合しました。澤井は外れ1位でロッテに指名され、荒木雅博は、福留、原俊介(元巨人)と2度の抽選を外した中日ドラゴンズから1位での指名となります。守備と走力には定評がありましたが、中日としては下位指名候補でした。

入団当初は当初の見立てどおり、あまりにも非力なため、打撃練習に明け暮れて1年目の一軍出場はありません。2年目には、脚力が評価され、一軍試合63試合の出場を経験しました。しかしほとんどが代走や守備固めでの出場であり、やはり打撃成績が伴いませんでした。スイッチヒッター転向にトライするも花開かず、入団から5年間、わずか15安打に終わります。そして、高卒時はプロ入りを拒否した福留が、社会人野球でさらに経験を積んで同じチームにライバルとして加入していました。

アライバコンビで鉄壁の二遊間を形成し、中日黄金時代を牽引

2000年当時の中日は、二塁手・立浪和義、遊撃手・福留孝介が主にレギュラーを務めていました。しかし、福留は内野守備にてこずり、3年目の井端弘和も台頭します。そして、2001年、ついに打撃開眼した荒木雅博もこの競争に入るようになりました。規定打席には到達しませんでしたが、打率.338と高打率を残し、後半は1番二塁手としてのスタメンの地位を確保します。2002年からは、立浪が三塁手、福留が外野手におさまり、荒木、井端の二人が二遊間レギュラーを務めました。

2004年、チームの監督に落合博満足が就任すると、二遊間を任された二人は、打順でも1番2番にほぼ固定されます。荒木はリードオフマンとして、初のフル出場を達成し、キャリアハイの176安打、39盗塁を記録します。井端もフル出場して、打率.302、リーグトップの18犠打と2番としての役割をこなしました。もはや守備は鉄壁であり、アライバコンビとしてともにゴールデングラブ賞さらにはベストナインも獲得し、チームの優勝に貢献しました。

以後、中日は毎年のように優勝争いし、2006年リーグ優勝、2007年はシーズン2位からの日本一と黄金時代を迎えます。そしてそのチームの象徴ともなったのが、アライバコンビであり、2004年からともに6年連続でゴールデングラブ賞を受賞しました。荒木は2004年から3年連続でベストナインも受賞し、2006年には初の打率3割、2007年には31盗塁で盗塁王と攻撃でもチームに貢献します。2008年には、日本代表として北京五輪にも参加し、2009年には6年連続30盗塁という偉業も達成しました。

球界を激震させたコンバートをするも、中日は史上初の連覇

2010年、アライバコンビがそれぞれ守備位置を交換するという、球界を激震させたコンバートが実現します。実は落合博満は監督就任当初の2004年から、このプランをほのめかしていました。実績のある名手たちを動かすことについては、周囲からは批判の声が上がります。しかし井端弘和は荒木雅博よりも2歳年上で先に選手としての衰えがきますが、その井端の後任遊撃手は荒木以外見当たりませんでした。また新たなチャレンジは、プロとしての選手生命を伸ばすものとして、監督は捉えていました。

怪我などにより構想実現が遅れていましたが、2010年ついに決行されます。荒木は、一塁への送球距離が相当長くなったため、まさかの20失策を記録しました。それでも腹をくくり2年間、遊撃手を務めます。井端は2010年故障から長期離脱してしまいましたが、中日は2010年から球団史上初のリーグ連覇を達成しました。

井端弘和の移籍でコンビ解消し、後継者不足に悩むチームは衰退

2011年限りで落合博満監督は退任し、高木守道が後任監督に就任すると、再びアライバコンビを元の守備位置に戻します。しかし二人揃って規定打席に到達したのは、2012年が最後となりました。2013年はともに不調に陥り、荒木雅博は12年ぶりに規定打席に届きません。そして井端弘和も大不振に終わったことで、球団から大幅減俸を提示されます。すると球団との関係がこじれ、オフには巨人への電撃移籍が発表されました。センターラインを支えたコンビが解消されると、後継者育成にも失敗した中日は一気にBクラス常連へと衰退します。アライバコンビがチームにいかに影響を与えていたかがわかります。

プロ野球史上、最も非力な2000安打達成者として球史に名を残す

2014年、荒木雅博は再び規定打席に到達し、通算350盗塁も達成します。しかし35歳を超えたベテランとなり、若手育成が急務なチームにおいて次第に出場機会は減っていきました。2015年からは2年間100試合出場に届かず、安打数も100安打を割ります。しかし、2016年シーズンを終えて積み上げた安打は1,961本となり、通算2,000本安打がはっきりと見えてきました。

入団5年間で15安打だったにもかかわらず、レギュラー定着後は1番打者として打席数が多かったことも幸いしました。2017年6月、本拠地ナゴヤドームにてその瞬間は訪れます。止めたバットにボールが当たり、それがヒットになるという驚きの結末でしたが、史上48人目の達成者となりました。非力な打者だけに、達成当時の通算本塁打数は33本と、それまで最も少なかった宮本慎也の約半数というところが、いかにも荒木らしい数字です。史上最も非力な2000本安打達成者ですが、すでに球団記録の370盗塁も達成しています。

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