名前今江敏晃(イマエトシアキ)
生年月日1983年8月26日
日本
出身京都府向日市
プロフィール小学2年から野球を始め、中学時代はボーイズリーグの京都田辺で遊撃手兼投手として活躍し、全国大会優勝を経験。3年時には日本選抜で主将を務め、世界大会で優勝。

1999年PL学園に進み、1年秋から4番打者に抜擢される。2000年夏の甲子園に出場。

2001年11月ドラフト会議ではロッテに3巡目で指名される。2年目の2003年、フレッシュオールスターでMVP獲得。2004年には三塁手へコンバートし出場機会を増やす。2005年、完全レギュラーに定着すると打率.310を残しチーム2位に貢献。さらに日本シリーズでも8打席連続安打を記録するなど4連勝に貢献してMVP獲得。同年は初のベストナイン、ゴールデングラブ賞(以後4年連続)も受賞。

2010年、リーグ3位の打率.331でクライマックスシリーズ出場に貢献。同年は再び日本シリーズでMVPを獲得する活躍で、史上最大の下克上といわれた日本一を達成。2013年もリーグ2位の打率.325をマーク。2015年、骨折離脱もあって規定打席到達を逃す。同年オフに海外FA権を行使して、東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。

通算成績は1,500試合、5,323打数1,513安打、96本塁打、660打点、32盗塁、打率.284(2016年まで)。ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞4回。PL学園高卒、右投右打、180センチ、80キロ。

輝かしいアマ時代も、PL学園最後の夏は戦うことすら許されず

今江敏晃は、京都に生まれ、両親の影響を受けて巨人ファンになりました。小学2年生からリトルリーグ・向陽オックスに所属して野球を始めます。5年生からは投手も兼任し、6年生時には120試合戦って117勝、50本塁打という驚愕の成績を残しました。中学進学後も実績は素晴らしく、3年時には全日本中学野球選手権大会ジャイアンツカップで全国優勝を収めます。さらにボーイズリーグ世界選抜として参加した世界大会でも、主将として優勝を経験しました。

さらにPL学園に進学すると、1年生から4番を任され、2年夏には見事甲子園出場を果たします。4番遊撃手としてチームをリードし、1回戦、2回戦と勝ち上がりましたが、3回戦で智弁和歌山に7-11と打撃戦で敗れました。3年最後の夏、今江含めて、朝井秀樹、桜井広大、小斉祐輔と後に4人ものプロへ進むメンバーを揃え、大きな成果が期待されます。しかし、不祥事で出場停止というまさかの事態が起こるという、すでにPL学園の衰退が始まっていました。

ロッテ入団後、三塁手へコンバートして出場機会を増やす

高校通算33本塁打のパンチ力が評価され、千葉ロッテマリーンズからドラフト3位指名で入団しました。そして高卒ルーキーにも関わらず、4月に早くも代打として一軍デビューし、さらにスタメン出場も経験します。しかしルーキーイヤーは、15試合の出場に留まりました。2年目には、ファームのフレッシュオールスターに出場し、勝利に導く逆転タイムリーでMVPを獲るなど存在感を示します。しかし同年の一軍出場は5試合に終わりました。

遊撃手・今江敏晃にとっての大きなライバルは、リーグ随一の守備力を持つ小坂誠でした。球団は、両者を生かすため、今江に外野手へのコンバートを提案します。しかし、内野手に相当なこだわりを持っており、自ら三塁手へのコンバートを決断しました。当時三塁手はベテラン初芝清や外国人が務めていましたが流動的でした。そして、自身3年目の2004年、一気に41試合と出場機会を増やしました。

ミスターロッテの背番号8を背負うと、日本一に貢献する大活躍

2005年、まだ一軍実績は乏しかったにもかかわらず、ミスターロッテと呼ばれた有藤道世の背番号8を与えられます。すると、同年は個人にとってもチームにとっても飛躍と年となりました。バレンタイン監督は、今江敏晃を9番三塁手として自身初の開幕スタメンに抜擢し、同じく若手の西岡剛含めて多くのチャンスを与えます。同年のロッテは、マリンガン打線と呼ばれる日替わり打線を組みましたが、今江はチームトップの132試合に出場しました。勝負どころの終盤8月には打率4割を超えるなど、首位打者争いにまで顔を出します。最終的には初めて規定打席に到達し、リーグ6位の打率.310、リーグトップの35本の二塁打を記録しました。

チームは10年ぶりにAクラス2位を成し遂げ、さらにプレーオフも勝ち抜いて日本シリーズへ進出します。完全に勢いに乗ってシリーズへ臨むと、今江のバットは止まりません。第1戦の第1打席から、8打席連続安打を放つという離れ業を演じ、シリーズ通算16打数10安打、1本塁打と大暴れしました。ロッテはただの一度もリードを許すことなく、阪神に4連勝し31年ぶりの日本一を達成します。大舞台での強さを証明した今江は、シリーズMVPを奪い、ベストナイン、ゴールデングラブ賞もあわせて受賞しました。

不動の三塁手として、4年連続ゴールデングラブ賞受賞

一気にスター街道をかけあがった今江敏晃は、2006年第1回WBCにも日本代表として選出されます。5試合の出場で2安打ながら、4打点と勝負強さを見せました。シーズンにおいても、ほぼ不動の三塁手として出場し、前年から続くゴールデングラブ賞受賞を4年連続にまで伸ばします。相手にも研究されたため、2006年からの2年は打率を大きく落としましたが、2008年にはリーグ6位の打率.309、12本塁打、55打点と復調させました。

史上最大の下克上でも、シリーズ男の本領発揮するMVP

2009年、再び打撃不振に陥り規定打席に届きませんでした。5年連続のゴールデングラブ賞受賞も逃し、チームも自身がレギュラー定着以降、最悪の5位と大きく順位を落とします。6年間指揮を務めたバレンタイン監督は解任され、ヘッドコーチの西村徳文が後任の監督に昇格しました。

2010年、チームは再び歴史的な快挙を達成しますが、またしても今江敏晃が中心となります。開幕は9番打者としてスタートしますが、故障者が出たことと、自身の打席向上もあって6月には2番に定着しました。するとチーム最多の犠打を決めるなど2番としての役割も果たし、さらにはリーグ3位の打率.331とキャリアハイの成績を残します。終盤には5番や6番も任されるなど、打線をリードしました。同年のパ・リーグは楽天を除く5チームによる激しい優勝争いとなり、ロッテは何とか3位に食い込みます。

そして5年前同様、奇跡の下克上がスタートします。クライマックスシリーズでは西武に連勝し、ソフトバンクには絶体絶命の状況から3連勝して日本シリーズ進出を決めました。シーズン3位ながら日本一を達成できるチャンスが到来すると、シリーズ男が再び大暴れします。第1戦で3打数3安打1打点と好スタート切ると、その後も安打を積み重ね、第7戦では4安打しました。全試合に5番打者として出場し、27打数12安打で打率.444、6打点をマークします。前回に続くシリーズMVPを手にし、史上最大の下克上を完成させました。

14年在籍したロッテを離れ、新天地・楽天へFA移籍

その後もロッテ主力として活躍し、2013年にはチーム事情から4番打者も務めました。同年は、リーグ2位の打率.325を残し、キャリアハイの74打点を記録します。しかし2014年から怪我による不調が続き、2015年には死球骨折で久しぶりに規定打席到達を逃しました。

2015年オフには海外FA権を行使します。ロッテはFA権を行使しての残留が認められていないため、ミスターロッテの称号を失うことになりました。獲得に手を上げた東北楽天ゴールデンイーグルスと契約に合意し、移籍が決まります。新天地でバリバリ活躍したいところでしたが、古傷を痛めるなど開幕に遅れ、シーズン中も二度の二軍降格と期待を裏切りました。2016年は、結局89試合に出場に終わりましたが、まだ33歳と若く、復活が期待されています。


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